最近、朝ドラのセリフが聞き取れないことが増えた。とくに主人公が小さな声で何かをつぶやいたり、妻と話し合ったりするところなどは、何を言っているかわからない。
自分の信念に従って行動する「高い志を持つ、市場価値の高い技術者」を育成します。
コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)

コラム
拡大するだけでは解決しないこと
幸せな暮らしにはコストがかかる
最近小さな公園をよく見かける。ベンチだけのものもあるが、ブランコなどのちょっとした遊具のあるものが多い。夏が近づく頃から周辺に雑草が生い茂り、遊べる空間が狭くなっているのではと心配になるが、気づくと雑草が刈られてきれいになっている。
高齢者の十年と子供の十年
十年前の65歳の誕生日、勤めていた企業を定年退職した。勤務先は何度か変わったものの、40年以上に渡る会社員生活がその日で終了した。その後の十年間は、大学の教員として全く違った環境で働き、多くの経験をした。
夢は現実を超えて膨らむ
夏休みの終わりに近い日、子供たちと孫たちが集まった。私を除く全員が(どうやら)ゲームの話題で盛り上がっているようだ。私には全く意味が分からないし、そもそも興味が無い。
命令も同調圧力もない生活
私は他人に命令、指示されることが大嫌いである。できるだけ何でも自分自身で決めたい。アドバイスすら敬遠したい。そのため、よほどのことが無い限り他人に相談はしないし、必要もないのに自分がしようとしていることを話題に出すこともしない。
最初の一歩さえ踏み出せば
今年の夏は、迷走する台風とゲリラ豪雨に翻弄された。それでも、いつしか秋の訪れが感じられるようになっている。例えば、アイスコーヒー一辺倒だったのにいつの間にかホットコーヒーが美味しいと感じる。
人間にしか生み出せないもの
立秋を過ぎても気温は一向に下がらない。今年は、早朝から深夜に至るまで30度越えも珍しくない。気温だけ見ていると1か月半は猛暑続きと言っていいだろう。
安定するまで待ってみる
遂に誕生月が来て、後期高齢者医療被保険者証が届いた。市役所からの簡易書留の封を開けて思わず「何これ」と声を出してしまった。今までの(国民)健康保険証の2倍以上の大きさの紙が1枚である。
猛暑対策も進化していかなければ
例年、7月から8月にかけては暑さに苦しんでいる。その強度は年々増していて、対処法も年々変化させざるを得なくなっている。例えば、3年前には何台かのPCが熱暴走で使い物にならなくなった。
人間の根源に迫るには時間が足りない
人生100年時代、私の残りの人生は4分の1になろうとしている。しかも、私はこれからする全てのことを「完食」つまり完結させることを目指している。そのためには、食事において何を食べるべきかの吟味が必要であるように、仕事についても何をすべきかを慎重に考えなければならばない。
アナログ活動と人間の思考のスピード
私の仕事机の上には何枚かの白い紙をステープラーで止めて作ったメモ帳が2種類、罫線の無いノートが1冊置いてある。何かに気づいたり、考えをまとめたりするときは、これらのノートとボールペン(消せるものと消せないもの)、蛍光ペンを使って、脳内に浮かんだ様々な考えを書き出す。
人間の脳はどう変化していくのだろうか
我が家の近所のマンションに3階建ての立体駐車場がある。まるでパズルのように車がずれて行き、空いたところを車が下りていく。うまくできていると感動した。
人生を完食したい
75歳が間近に迫ってきた。過去を振り返って「ああすればよかった」と後悔することは殆ど無いのだが、最近になって気になっていることがある。
多様性を受け入れられないことの先にあるもの
思い起こせば、英語を身に着けるために随分お金と時間を使ってきた。学校の授業以外にもマンツーマンの英会話学校(かなり高額)に数年間通った。
なぜおかしな答が返ってくるのか
チャットGPTなどの生成AIに対して様々な質問をして、おかしな回答、間違った回答が出てくるのを面白がるということが流行っている。私も実は色々試して、まだ人間は越えられていないと密かにほっとすることが結構ある。
人間の完成形などない
ある人が「赤ちゃんは不完全なように見えているが、いつもそれぞれのレベルで十分に一人前に生きている」と話すのを聞いた。つまり、赤ちゃんと言う状態、子供という状態で、持てる限りの力を使って生きているということである。
言葉は「空」である
最近の私は、ちょっと難しい本であれば3回は読み返さなければ理解できない。記憶力も理解力も最大だった20歳の頃の自分に戻れたらと思いきや、何度も読む手間を楽しんでいる自分がいる。
有でも無でもないもの
インドの哲学者である龍樹(ナーガールジュナ)(150−250)の「空」の思想を知ったのは、全くの偶然だった。量子力学に関する本を色々読んでいた時「世界は『関係』でできている」(カルロ・ロヴェッリ著 2021)に辿り着いたからである。
バーチャルとリアルの間
私が外食をすることが殆ど無くなったのは新型コロナの影響ばかりではない。生活がほぼコロナ前に戻りつつある現在でも、外食どころか中食すらする気がなくなっている。美味しいものが食べたくないのか。
選択の自由の時代を生きる
私の手元には役所から届いた新型コロナワクチンの接種券がある。6回目と7回目の分である。6回目接種は5月から8月まで、7回目接種は9月から12月までにするようにと書いてある。
技術が助けとなることを実感する日々
大学の新学期が始まる4月、新しいPCを購入した。Windows11のタブレットPCである。私の家には動くPCが6台(Windows10/11が3台、Ubuntuが3台)あることはこのコラムでも何度か取り上げてきたが、なぜまた増やす必要があったのか。
マスクを外したら世界が変わった
実は、密でない場所では内輪の集まりに限ってだが、かなり早い時期からマスクを外すようになっていた。例えば、ZOOMなどを使って会話ができていて顔が知られている場合なら、マスクを外すのはそれほど抵抗がなかった。
言語コミュニケーションに新時代到来
現在、全世代に共通の話題となっているのがチャットGPTに代表される対話型AIである。私のような高齢者の集まりでも、ビジネスマンの集まりでも、あいさつ代わりにこの話題が出る。
偶然を待っていては気づけない
ウォーキングの途中で小さなスズランのような白い花を沢山咲かせた樹木を良く見かける。住宅の生垣、歩道の脇などにずらりと並んでいるのは圧巻とすら思える。調べてみたら馬酔木(あしび)だった。
重さに幸せを感じていてはいけない
毎日、2時間以上のウォーキングを続けている。暖かくなったこの季節は足の運びも軽やかになった気がする。先日、途中のスーパーの店先にちょっと形の悪い野菜が出ているのに気づいた。白菜が1個100円(!)、ニンジンが3本で70円(!)。
それは本当に因果関係ですか
不思議なことに、家電品が同時期に次々と壊れたり不具合が起きたりすることがある。何かの呪いかと思いたくなる。冷静になって考えれば単なる偶然が重なっただけなのだが。
変化の春は悲喜こもごも
道を歩けば、鮮やかな赤紫色のモクレンの花が目に飛び込む。白いコブシの花も多く見られる。春を彩るのは梅や桜だけではない。桜が終わればハナミズキだ。年々、春の散歩道はカラフルさが増していく。
自分の関心事を自分の言葉で発信できる社会へ
3月7日、電車で移動中にスマホにニュース速報が届いた。H3ロケット初号機打ち上げ失敗と知り力が抜けた。詳細な情報が知りたくて報道番組を観てみたものの、野球のWBCの話題ばかりで殆ど話題に上っていなかった。
男女同数を目指す時が来ているのではないか
今年は春が一気にやってきた。池や川に沢山いたカルガモやオオバンなどの水鳥は北に帰って行ったのか、数がぐんと減った。一目で見られる範囲の水鳥の数が一瞬で数えられるくらいに。面白いのは、ほぼ間違いなく水鳥の数は偶数ということである。
科学の進歩はAIで加速するだろうか
自宅の本棚で読まずに10年も眠っていた書籍を見つけて読み始めた。「知の歴史−世界を変えた21の科学理論」(徳間書店 2002)である。これは、20世紀に科学誌「ネイチャー」に掲載された、現代社会に大きな影響を与えた研究成果につながる21の論文と、その解説を掲載したものである。
どう思うかではなくどう行動するかが重要だ
首相や企業のトップを始めとする影響力のある人たちの発言が物議を醸すことがよくある。大抵は当人が「そういう意味でいったのではない」「誤解を招く発言をした」と釈明や謝罪をするが、世間はそのままには受け取らない。
AIに答えられないテスト問題作り
3年間のコロナ禍を経て、大学における私の担当する授業のやり方が大きく変わった。最も大きいのが完全にペーパーレスになったことである。テキストはデジタル化したものを配信、講義中に新しい情報を画像で提供、試験もPCと授業支援システムを使って実施している。
全身の感覚を磨く春
ダイニングテーブルの隅に春の和菓子の写真の載った雑誌が広げてある。水流や桜を象った練り切りなどである。食べていることを想像すれば味、香り、舌触りまで蘇る。私は、洋菓子も和菓子も殆ど想像の世界でしか食べていない。
自由意志を侵害されることへの抵抗感
所得税の確定申告をe-Taxで予定通り行った。昨年も同時期に書類を作成して申告を行ったのだが、数日後に税務署から電話があった。書類の電子認証ができていないということだった。
考え抜くことなしに時代は変わらない
この数年間、大学の授業において千人近くの学生に毎週レポートを書いてもらい、全てに目を通してきた。振り返ってみると多くの気づきがある。その一つが非常に気になっているので紹介したい。
パラレルワールドに違和感はない
この一年間で(過去に読んだ本の再読も含めて)様々な本を読んできた。その中で最も納得し、さらには自分の生き方にも影響を与えたと思われるものは、「なぜ世界は存在しないのか」(マルクス・ガブリエル著)である。
若い時の努力は50年後に活きてくる
今年になってフランス語の勉強を始めた。自分でも思ってもみなかった行動である。フランス語は50年以上前の大学4年の時、アテネフランセという学校の単科コースに通って集中的に学んだことがある。
謎が解けるとき
もう65年以上前のこと、時々、小学校の門前で怪しげなおじさんが怪しげな物を売っていた。下校途中の小学生の多くがおじさんを取り囲んでそれを手に取っていた。あるとき「体が透けて骨が見える眼鏡」なるものが売られていた。
ウィズコロナからの出発
新たな年が始まった。昨年、一昨年とは違った穏やかでかつ希望も感じられる年始である。決してコロナ禍は終わっていないのだが、ウィズコロナで普通の生活は戻りつつある。しかも、コロナ前と比べて良い状態になった面も多い。自分の周囲からそれを挙げてみたい。
怪我の功名
何日か前、数個の玉ねぎが冷蔵庫の冷凍室に放り込まれているのに気づいた。うっかり野菜室と間違えて入れたようだ。カチカチになった玉ねぎを野菜室に入れたら、次の日には柔らかくなってしまった。
小さな発見の積み重ね
年末になると私的な今年のベストテンを決める。気づいたのだが、今年は春と秋に2泊3日の一人旅をしていた。一昨年、昨年と旅行は控えていたのに、コロナが収束していないにもかかわらず2回も実行している。
自分だけの何かが大切になってくる
クローゼットを開けてふと気づいた。この1年間、いやそれ以上の期間、一度もスカートを履いていない。家にいる時間が長いからではあるが、それでも以前は大学の講義や人と会う時はスカートにストッキングを履いていた。
新たにできることを作る、貯める
私には人生100年を元気に生きるための「信条」のようなものがある。例えば、身近なところでは「席を譲られたら決して断らない。妊婦さんには席を譲る」「100m先であっても必ず横断歩道を渡る」「お金を貯める最も有効な方法はモノを買わないことである」などである。
変化を厭わない時代を生きる
一瞬道を間違えたかと思った。5種類ある散歩ルートの一つを2週間ぶりに歩いてみたら、あるはずのないスーパーが現れたからである。ぐるりと一回りしてみると、壁に文字を消した跡が見えた。そういえばここには確かにスーパーがあった。
変化していても振り返れば平坦に見える
いつも使っているノートパソコン(Windows 11)でマイナポータルを使ってみようと手持ちのICカードリーダーを差し込んだが全く反応しない。理由を調べて分かったのだが、このデバイスはWindows 8.1までしかサポートしていなかった。
高齢者には支援よりも協力が有益だ
毎年11月に行っていた秋の一人旅を3年ぶりに再開した。今回は5年前に辿った北陸の地を前回とは逆に巡った。体力は明らかに向上していると実感した。やはり毎日2時間強のウォーキングは有効だった。
組織変革を妨げる3つのこと
DX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉を見ない日はない。デジタル化でビジネス変革、組織変革というメッセージが世の中に溢れかえっている。ふと1990年代初めのBPR(ビジネスプロセスリエンジニアリング)ブームを思い出す。
世界は存在しないが宇宙は存在する
最近、量子力学の一般向けの解説書を読む機会があった。私は理系とはいえ物理学は専門ではなく、数式とは無縁の生活を数十年続けてきたので理解できる自信はなかったが、結構すんなりと読み終えてしまった。
相反する性格を両立させる
もう4年ほど毎日2時間強のウォーキングをしているが、どっきりする光景によく出会う。それは、車の行き交う広い道路の横断歩道ではない所で人が渡る光景を目にすることである。横断禁止のための柵が設けられていても、平気で乗り越えていく。
人生リセットよりも望むこと
いつも乗っている電車のいつもの場所に本の広告が貼ってあった。読者の感想が並ぶ中に、「これを読んで人生をリセットしたいと思った」というものがあってびっくりした。私自身は、若い頃に戻って人生をやり直したいと思ったことはない。
今私が減らすべきモノは何か
ここ数か月、自宅の電気代がかなりかさんでいることに気づいた。そこで、昨年の支払い金額のデータを探し出して今年と比較したところ、8月の支払い(7月の使用量を反映)は1.4倍にもなっていた。
この変化は本物なのか
気づいたら9月は終わっていた。そういえば、9月はいつもめまいと足のつり(こむら返り)に悩まされていたのだが、今年は殆ど無かった。何か良いことをしたのだろうか。考えてみても思いつかない。
ミスを犯すのを恐れてはならない
最近、大学の授業のための資料を作成する際に間違いを見つけることが多くなっている。これで完璧と思っても、読み返してみると目次と内容がずれていたり、日付や時間が違っていたりすることに気づき、何度も修正作業を繰り返すはめに陥る。
若き日の覚悟と理想の最期
エリザベス女王が亡くなった。大半の日本人が想っているのと同じ思いで受け止めている。ただしいて言えば、女王が私の98歳の母と2歳違いであること、チャールズ新国王が私と同年であることで、他の人より感じるところは多いかもしれない。特に、「私はどのような最期を迎えたいのか」というここ数年間考え続けてきた課題について参考となる答が得られるのではないか、という思いは強くなった。
ウィトゲンシュタインとチョムスキー
ウィトゲンシュタイン(1889−1951)はオーストリア生まれの著名な哲学者である。哲学とは全く無縁な生活を送ってきた私がその名を知ったのは全くの偶然である。数年前、友人が「持っていた本を間違ってまた買ってしまったのであげるよ」と分厚い本を譲ってくれたのだ。
喜びは知ることから発見することへ
小学校低学年の孫と話をしていると、新しいことを知った喜びが伝わってくる。春には雲の形と天気について嬉々として語っていた。最近は学校でのプログラミング学習についてやっていること、これからやりたいことなど話してくれた。幼い時は「知ること」がほぼ「発見」なのだろう。それが感動を呼び起こすのだ。
ランダム化と多様性
この夏は、ヒトという「か弱い種」がどうして地球で最強の存在になりえたのか、を考え続けてきたように思う。具体的には家に引きこもって本ばかり読んでいたのだが。半月ほど前には「なぜヒトだけが言葉を話せるのか」(トム・スコット=フィリップス著、東京大学出版会)から、「自分の意図を明示し、推論するコミュニケーション能力」を身につけたから、という説に大いに共感した。
今最高のぜいたく品とは
今年のお盆の時期をはさんで3週間ほどは、猛暑、コロナ、豪雨のニュースばかりをテレビで観ていた。しかし、その合間を縫って流れてくるのは、観光地に押し寄せる人たち、都会から地方に移動する家族連れ、プールではしゃぎまわる子供たち、盆踊りや花火に感動する人たち、などなど、3年ぶりに行動制限のない夏を満喫する人たちの映像だった。
部屋にこもって思索にふける日々
猛暑である。行動制限のない夏と言われているが、コロナの感染者数を見れば旅行はおろか近くの買い物すら控えてしまう。大学も夏休みなので、必然的に家にこもることになる。当初は退屈するのではと思ったが、とんでもなかった。
私にとって8月は特別な月
日本人にとって8月が特別な月であることは疑う余地がない。6日、9日、15日は特にそうである。第2次世界大戦が終わってから生まれた私が来年には後期高齢者になるのであるから、大半の日本人に戦争の記憶はないのだが、それでも8月になればあたかも経験したかのように胸が痛くなり、二度と戦争を引き起こしてはならないと誓う。
何を優先させて身を守ろうか
今年の夏は、と言うか、今年の夏もと言うべきか、平和なはずの日常を新型コロナ、熱中症、豪雨が脅かしている。自分の身を守るためには、各々への対処を怠りなくしていかなければならない。
見え方は人それぞれ
猛暑の日に長時間電車に乗っていて冷房が効きすぎて凍えそうになった。そこで、長時間の移動のときには薄手のロングブラウスを羽織ることにした。地下鉄でふとそのロングブラウスを見たとき違和感があった。これは確か赤みのあるレンガ色をしていたはずだ。そのために真夏に着るのを躊躇していたのだ。
猛暑の中でケアすべきモノたちよ
今年はいつになく早く猛暑が来てしまった。毎年、この時期は電子機器、特にパソコンのトラブルが多発し、その対策に汗をかく。いつの間にか我が家(所属人数は私1名)のパソコンは6台になってしまった。今年こそはトラブルが起きませんようにと祈るばかりである。幸い、現在のところ大きな問題は生じていないが、夏はこれからなので気は抜けない。
なぜ人間の言葉が分断を招くのか
ユバル・ノア・ハラリの著作を3冊読み終えた。うち2冊(SapiensとHomo Deus)は原書で何か月もかけて苦労して読んだが、21 Lessonsは日本語訳なので勢いであっという間に読み終わった。もっと人間の進化について理解したいと思うようになった。
痛みの記憶を失う恐ろしさ
まだ6月だというのに間もなく梅雨明けになりそうというニュースを見て、慌てて庭に除草剤を撒いた。しばらくは晴天が続くのでチャンスだと思ったのである。昨年は、梅雨明けを待って撒いたつもりがすぐに雨が降って無駄になってしまった。
私がマスクをかけなくなるとき
先日、歯科医院から出て家に向かう途中の道でマスクをしていないことに気付いた。診察の際に外してポケットに入れていたことを思い出し、あわてて着けた。私としたことがこんなミスを犯すとは。家のドアに「マスク着用」というイラスト入りのプレートを付け、外出の際には必ずマスクをし、家に戻るまでは決して外さないことを信条にしているほどなのに。
現代人が過去を表現する難しさ
明治、大正、昭和時代に書かれた小説や映画では、現在では考えられない差別的な表現がかなりの頻度で出てくる。時には目をそむけたくなるものもある。これらは、当時の世相を表したものとして修正はされることはない。
近未来の医療に恐怖を感じる
原書で読んでいるために一向に終わりが見えなかったHomo Deus(ユヴァル・ノア・ハラリ著)だが、ようやくもう一息で最後の章というところまでたどりついた。とにかく英語力の乏しさに加えて、世界史の知識の無さが読むスピードの遅さに影響しているのだが、今更どうしようもない。
諦めるのは早すぎたようだ
この歳になるとできないことが増えてくる。目立ったところでは、若い時には弾けていたピアノが全く弾けなくなった。数年前に腰を痛めてからは、走ることと飛び跳ねることができなくなった。腸閉塞の手術をした後は、消化の良い食べ物しか食べられなくなった。老眼も進んで文字を読むのがつらくなった。
細かいことが気になるのは暇だからか
私の大好きなドラマ『相棒』では、主人公とその相棒はいつも「暇か?」と言われている。そして、主人公はいつも「細かいこと」が気になっている。何だか自分のことを言われているみたいである。私が暇なのは事実だし、最近ますます細かいことが気になる。ただ、私の「気になること」は右京さんのそれとはちょっと違うようだが。
可愛いだけじゃないから欲しくなる
雨の降る日の散歩が楽しみになっている。その理由は半年前に買ったビニール傘が使えることにある。よくそこら辺に放置されているビニール傘とは違う。透明で、カラフルな模様がついている。初めて使ったとき、周囲の見通しがよいことに驚いた。これなら車はもちろん前からくる自転車も避けることができる。
なぜ私はネタバレを好むのか
聞いたところによると、最近の若い人たちは、映画やドラマの倍速視聴や(ネタバレを見て)結末を知ってからの視聴が当たり前になっているということだ。その理由として2つの要因が挙げられている。倍速視聴は、限られた時間で多くの動画を見なければならないので時間を無駄にしたくないということである。
地図のピースを嵌めていく
毎日(ただし雨の時はさぼることもあるが)2時間半のウォーキングを欠かさない。最近は足が速くなったのか結構遠くまで行けるようになった。さらに、同じルートでは飽きるので新ルートの開拓も進めている。
いつの間にかニューノーマル
年齢のせいもあるのだが、最近本を読むと目が疲れる。慣れない英語の本(SapiensとHomo Deus)を神経を集中させて読んでいるので、そのせいかもしれない。当然、目薬を差す頻度が高まる。気づいたら残りがわずかである。すぐにAmazonのサイトを開いて注文した。
SapiensからHomo Deusへ
毎日欠かさず続けているウォーキングで、週に一度は家から1時間ほど歩いたところにある大型書店に立ち寄る。そこでは、どのような本が出ているのか、どのような内容なのかを確かめるだけであり、興味を持った本はAmazonで買うことにしている。
琵琶湖は桜のオオバン振る舞い
蔓延防止措置が明けた4月上旬、2泊3日の琵琶湖一周の一人旅を決行した。昨年末に予定していたのだが、大雪で列車が動かず断念せざるをえなかった。今回はそれのリベンジ旅行である。東京と米原間の新幹線の往復切符と、京都と彦根のホテルの予約だけして、あとは気の向くままに歩くことにしていた。
今年は平成何年なのか
子供の頃、昭和の年号に25を足すと西暦の年号の下2桁になると教わった。私は昭和23年生まれだから西暦1948年となる。これは社会人になってから、子供が生まれてからも有効だった。しかし、平成になって崩れた。
継続することへの不安はないか
同じブランドの商品を使い続けたり、同じ食品を食べ続けたり、といった一種のこだわりに対して、世の中はポジティブに受け止めているように見える。何かに愛着を感じたり、何かにこだわったりするのは、人間味あふれていていいなと思うのだろう。でも、私自身はそれをしない。安いものがあればすぐにそちらを買うし、新製品が出ればすぐに飛びつく。
断捨離はしないことにした
この数年間、何かにとりつかれるように「家の中の物を捨てていかなければならない」と思い続けていたような気がする。「終活」という言葉が目にちらつき、この歳になったら身の回りの物を整理して必要最小限の物だけ残して始末してしまい、静かに余生を送るのが正しいあり方、と思わされてきたのではないだろうか。
情報フィルタリングの気づき
週に一度は乗っている電車の車窓からぼんやりと景色を眺めていたら、建物の壁に大きく「ペットの霊園」と書かれているのが見えた。いつも目にしていたはずなのに全く気づかなかった。
脳を鍛えるための方法
もしもアラジンのランプが手に入って3つの願いが叶うとしたら、と考えることがある。@120歳まで長生きする A死ぬまで自立して行動できる B死ぬまで脳の働きを維持できる と言うのが現在の私の個人的な3つの願いである。@とAに関しては全く不可能とは言えないと思っている。
(続)私たちはまだ生きている
一人で仕事している私にはなくてはならない助っ人たちがいる。人というより機械といったほうがいいのだろうが、毎日、各々に声をかけながら暮らしているので家族みたいなものである。この2年弱の間に、この家族にも大きな変化があった。2年前には3人(台)だったのに現在はなんと6人(台)もいる。家族=パソコンたちの話をしたい。
昭和と令和の距離は意外に近い
永井荷風の日記(断腸亭日乗)のエッセンスを集めた「摘録 断腸亭日乗」(上下巻)を読んだ。上巻は大正6年(1917)から昭和11年(1936)まで、下巻は昭和12年(1937)から昭和34年(1959)まで、全体で荷風38歳から79歳の日記である。
迷い道うろうろ
コロナ渦に突入して2年以上が経った。高齢者のフレイルが問題になる中、私の健康状態はコロナ前よりも良くなっている。明らかに毎日2時間以上の速足ウォーキングのお陰である。夜よく眠れるし、食事も美味しい。私のウォーキングは、5種類のコースを日替わりで歩くというものである。
思い出話では今の問題を解決できない
私が仕事や子育ての両立に関する過去の経験を若い人たちに語ることを止めようと思うようになったのは65歳頃からである。それ以前から自分の言葉が伝わっていないと感じることが多くなっていた。それでも聞かれたら答えようとは思っていたが、自分の子供からでさえ聞かれることも無くなっていた。
無知であることを認識しよう
脳の働きの主役はニューロンであるとずっと思ってきた。言い換えれば、ニューロンが分かれば人間の脳の働き方が分かり、それによりAI(人工知能)が人間に近づき、ひょっとすると超えることもできるのではないか、と信じそうになっていた。3年前、グリア細胞の存在を知り、私だけではなく多くの人たちが脳について分かっていなかったのだと気づかされた。
朝食が美味しいと思える幸せ
一人暮らしで引きこもり状態が続いている。大学の非常勤講師の授業も4月までは無いので、他人との会話の機会はほぼゼロと言ってよい。そのような中、感動したことを声に出して言うと気分もよくなることに気づいた。最近多いのは、朝食の後の「美味しかった、幸せ」と言葉に出すことである。この言葉には多くの意味が込められている。
到達ルートはひとつだけではない
最近、ウォーキングがつらくてたまらない。寒さに加えて風も強く、2時間以上歩くのはかなりの苦行である。だから日向の道ばかり選んで歩いて、せめて太陽の暖かさだけは頂こうとしている。雪の降った後などは、凍った道で滑るのが怖くてかなり緻密に日向ルートを探って歩いている。行く先が決まっているなら、できるだけ安全で快適なルートを選ぶのは当然ではないだろうか。
こんなはずではなかった
「想定外」と言う言葉が頻繁に聞かれたのは、東日本大震災が起きた直後(約11年前)だろうか。その後、安易にこの言葉を発するのはリスク管理ができていないことを認めるとみなされるようになったからか、あまり聞かれなくなった。しかし、予想をはるかに超える「こんなはずではなかった」と言いたいことはかなり頻繁に起きている。
今年も孤独を満喫したい
この年末年始は、寒波のために殆ど家に引きこもっていた。実は昨年末に滑り込みで琵琶湖周辺の一人旅を計画していたのだが、案の定、大雪でキャンセルせざるを得なかった。関東も寒波で、いつものウォーキング以外は部屋でテレビを観る日々が続いた。毎日観たい番組を漁っているうちに、自分の好みの番組の傾向が分かってきた。
年賀状よ永遠に
昨年末、郵便ポストに年賀状を入れる口を示す表示が現れてすぐ、束にした年賀状を投函した。例年よりちょっと早めである。理由は明らかである。年々、数が減っている上に、書く(作成する)のが楽になっているからである。
新たな出会いの日々
私が日替わりで行っているウォーキングのコースにはいくつかの池がある。いずれも、もとは自然の池や沼だったのだろうが、現在は整備されて公園のようになっている。秋になるとカモやオオバンが沢山やってきて賑やかなことこの上ない。そんな中、ある池で素晴らしい出会いがあった。
私の一人酒の条件とは
一人暮らしの私には、当然ながら生活習慣について口うるさく注意をする人はいない。つまり自分の食べたいものを自由に食べ、飲みたいものを自由に飲むことが出来る。その結果として、生活が不規則になったり生活習慣病にかかったり、寿命を縮める可能性だってある。
企業のパーパスと私のパーパス
国内外の名だたる企業が自分たちの「パーパス」を明確に設定し、それに基づいてビジネスを行っているというニュースがあった。企業のパーパスとは、「社会における企業の存在意義」だそうである。それを決めるにあたっては、社員全員で話し合うとか創業時の理念(初心)に立ち返るとか、様々な取り組みがなされているようである。
知りたいことが沢山あるとワクワクする
いよいよ冬に突入した。秋から冬にかけてのウォーキングでは、毎年、池や川にやってくるオオバン探しを楽しみにしている。なぜか、年によって見かける数や場所が違う。もちろんカモに比べれば圧倒的に少ないのだが、びっくりするくらい多い年もあれば、一昨年のように殆ど見かけなかった年もある。
一人旅で実感できる自由の喜び
先日、テレビで「ソロキャンプ」が紹介されていた。私自身、キャンプの経験は全くない。テントで寝たことも、寝袋に入ったこともない。ましてたった一人で真夜中にテントで寝るなんてとてもできそうにない。でも、ソロキャンプの映像を見てキャンパーたちの話を聞くと、なぜそれに多くの人が惹かれるのかよくわかる。
非日常から新日常へ
非常勤講師をしている大学では、全て対面授業となった。ただし、同時にZOOMによる配信も行っているので私自身の働き方は変わっていない。教室にいる学生はこれまでの出席者数から考えてかなり少ない。明らかに出席率は落ちた。
未来への期待が高まるのはなぜか
中学生の頃から家を出ることばかり考えていた。まず東京へ、そして海外へ。現代の子供たちは親と仲が良い、とよく言われているが、当時の私はそんなことはなかった。親に守られている感覚よりも親から様々な規制を受けている感覚が強かった。
人混みに喜びを感じてしまう
衆議院議員選挙とハロウィーンが重なった10月末は雨模様だった。朝9時前にいつもの投票所に向かう。驚いたことに、投票所は最近経験したことのない密状態だった。ただし、高齢者が多いことだけはいつも通りだったが。駅に向かって歩く途中で隣の地域の投票所の前を通りかかったら、こちらは道路に長い行列ができていた。
なぜ私は今アクティブになれないのか
かつて母は「70代までは積極的に動けるけれど、80代になると体が思うように動かなくなる」と言っていた。私はそれを信じて、仕事が大きく減る70代は思う存分好きなことをしよう、と期待していた。しかし70代になってみると、60代と比べてアクティブに動こうとする気力がかなり薄れていると感じられる。積極性が減少しているのだ。
マイナンバーカードを普及させるために
私は結構新しい物好きなのかもしれない。マイナンバーカードを作ったのは5年前である。ただし、成り行きでそうしたというだけのことであり、欲しくてたまらなかったわけではない。それでも私にとっては便利で、様々な場面で結構役に立っている。
忘れていた恐怖を思い出す
私は都内の大学で非常勤講師をしている。全国的に緊急事態宣言が終了した10月になって、これまで全面リモート授業だった私の担当授業(3クラス)がハイブリッド授業に戻った。これは学生の半数が教室で対面授業を受け、同時にZoomでリモート配信して半数の学生が自宅などで受講するというものである。
父の食べたトンカツ
この夏は籠バッグ(ストローバッグ)を使わなかったことに気づいた。ウォーキング以外の外出が少なかったからだろう。最近は籠バッグなど持っている人はあまり見かけないが、私は幼い頃とても憧れていた。
誰のプライバシーも平等に守られるべきだ
以前、知人から共通する知人のことについて「ああいうことがあったから、しばらくはそっとしておいてやろう」。と言われて、はあ、と曖昧な返事をしたことがある。こういうことは私にはよくあることで、「誰かの大変な状況」について当然知っているはず、という前提で話題が出されて困ることは多い。
個人事業主の孤独
70歳で大学を定年退職し、完全な個人事業主となって3年目である。定年は60歳、65歳と計3回経験したが、前の2回はその後企業や大学に雇用されたので意識が大きく変わることはなかった。でも今回は違う。雇用されることは窮屈だった一方で、組織の一員として守られていたのだということを今更ながら実感している。個人事業主は孤独である。
無理せずありのままの自分で
幼い子供たちが交通事故で命を落とすニュースを見聞きすることが多い。胸が痛み、私のような高齢者が代わってあげたほうがよかった、などと思う。最近、長生きするために努力をすることが目的のような生き方をしている自分を省みて、生きるのであればもっと社会に貢献しなければならないのではないか、と考え込むことも多くなった。
コロナの時間と人間の時間
コロナウイルスはどんどん変異を繰り返し、したたかに強くなっているのに、人間の変化のスピードは驚くほど遅い。むしろ人間は変化を阻止しようという方向に走りがちである。私自身がそうで、できれば昨日と変わらずに自動的に行動ができれば楽だと考えがちである。変化するのにはエネルギーがいるし、ストレスも大きいからである。
できることを見つけて強化するぞ
夏休みは終わった。子供のころから早め早めにスケジュールをこなすタイプだったので、夏休みが終わるギリギリになるまで宿題をしないでいるなどということはなかったと思う。しかし、高齢者になると変わってきた。