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知らずに誰かを傷つけていなかったか


2025.8.31


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 同年代の後期高齢者と話をしていると、過去のある時点での意思決定が間違っていたのではないか、ということを言う人がいる。例えば「あの時、別の選択をしていれば今はもっと良くなっていたのではないか」といった意味の後悔の念をつぶやく人が、少なからずいる。私自身はそんなことは考えたことがない。たとえどの道を歩んだとしても、現在とそれほど違った人生にはならなかっただろうと思っている。でも、気づかずに多くの間違いを犯して来たのではないか、と考えることはよくある。自分ではなく周りの人達に対してである。

 自分に対しての間違いの例として、ここ数年間に私に降りかかったトラブルを挙げよう。台風で屋根の上に設置したテレビのアンテナが折れて倒れ、それによって屋根瓦が何枚か落ちたこと、家の軒下に大きなハチの巣が見つかって駆除したこと、庭の樹木が大きくなりすぎて隣のお宅からクレームがついたことなどなど。いずれも原因が明確であり、私自身の不注意から生じた問題である。納得して対処できた。でも、過去に、気づかずに誰かを傷つけていて、その人が未だに傷が癒えないでいたとしたら、どうしたらよいのだろう。

 なぜ、今になってこのようなことを考えるようになったのか。ひとつには、様々なことを考える時間が増えたことが挙げられる。さらに、自分の感覚も多忙だった若かりし日より鋭くなっている。その結果、自分自身も「胸がチクリと痛む」ことに敏感になっている。その先にあるのは、「同じようなことをかつて他人にしていたような気がする」という感覚である。さらに、何十年も前の具体的な出来事を思い出すことも多い。

 最もありそうな事例として(世間でもよく言われているが)、家族の写真入りの年賀状を送ることがある。ペットなら問題ないと思うのだが、ペットとの別れを経験した人はどう思うだろうか。仕事が忙しいこと、大変なことを必要以上に強調するのも、仕事の無い人にはつらいものだ。自分自身の幸せは必ずしも相手の気持ちをも幸せにはしない。この歳になって気づくのは遅すぎるのだが。

 別の面からも、同じような「謝罪することのできない」ことへの後悔がある。資源の無駄遣いである。特に、「食べ残したもの」については悔いが残る。例えば、外食の場面でどれだけの食べ残しをしてきたか。食材の生産者、配送者、料理を作って提供してくれている人たちに対して申し訳なく思うと同時に、地球の寿命を縮めてしまったような気がしている。現在、食べ残しをしないために、外食の前後には必ず一食抜くようにしているが、死ぬまでにどれほどの効果があるものか。自分の内臓の処理能力がかなり落ちているので。

 同様なことは、殆ど着なかった(今更、着ることのできない)衣料品の購入、すぐに使わなくなってしまった家電製品、運動器具、美容器具の購入。家の片づけと不用品の処分を始めたところ、これらがぞくぞくと出てきて気が遠くなりそうである。現役で働いていた時には定期的に給料が入ってきていたので衝動買いしていた。使えるお金に制約が出て、本当に必要かどうか考えるようになった。あの頃気づいていればよかったのに。

 いずれにしても過去は変えられない。これからの人生は他人の幸せに焦点を当てよう。

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