3年ほど前に「いま世界の哲学者が考えていること」(岡本裕一朗著)を読み、哲学に少々興味を持った。そこで、まずは初歩的な所から取り掛かるべく「哲学用語図鑑」「続哲学用語図鑑」(プレジデント社)を購入し、楽しいイラストを見ながら何となく分かった気になった。ところが、それに気をよくして、マルクス・ガブリエルの新実存主義を齧ろうとしたが失敗した。何もわからぬまま2年半が過ぎた。
自分の信念に従って行動する「高い志を持つ、市場価値の高い技術者」を育成します。
コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
コラム
コロナに心を蝕まれるな
パソコンの定年退職
私は3台のパソコンをプライベートで所持している。そのうちの1台は7年半前に購入したデスクトップで、最初のOSはWindows7だった。画面が大きく使い勝手もよく重宝していたが、1年半後にWindows10にアップグレードしたところ、動きが遅くなり不具合も散見されるようになった。それでも致命的な欠陥とまでは言えず、何とか使えている。現在は、伝票の整理とe-Taxによる確定申告のときしか活躍の場がない。
正解の分からない問への対処方法
私が大学の非常勤講師として担当している授業においては、毎回必ずレポートを提出させている。レポートの課題は正解の分からないものばかりである。例えば「AIに人間の倫理を教えられるか」といったものになる。学生はその課題の意味を調べ、その解答について自分の知識を総動員して考え、わからなければ誰かが知っていないかを調べる。最終的には総合的に判断した上で解答を作成して提出する。次の週に、私は「解答の解説」を行う。
息をひそめて生き延びよう
引きこもりの日々が続けばついつい見てしまうのが、2時間ドラマや連続ドラマの再放送、特に多いのが刑事ものである。それが何か月も続くと、犯人も筋も分っているのに同じドラマを何度も見ることとなる。まるで自分が認知症になっていないことを確認するようなものである。刑事もののドラマでは、最後の方で主人公(刑事)が、殺人を犯した言い訳をする犯人に向かって「あなたは人の命を何だと思っているんですか」と叱りつける場面がよくある。
学生よ、もう少しの辛抱だ
8月に入り、私の大学でのオンライン授業は終わりを迎えた。昨年までの教室での授業に比べれば、準備に3から4倍の時間をかけてきた。具体的には、オンデマンドの授業のためのテキストに音声を付ける際には、テキストを作り直し、講義のリハーサルを繰り返して本番を行い、聞きなおして修正を加える、といった具合である。毎回レポートを提出してもらったが、全てのレポートを読んでキーワードを抽出し、分類整理して次の回のテキストに資料として追加するのにも数時間かかった。初めての経験で大変ではあったが、その甲斐あって、例年を大幅に上回る合格者(単位取得者)を出すことができた。
猫の幸せと犬の幸せ
郵便受けから郵便物とちらしを引き出すと、その間にくしゃくしゃになった紙が入っていた。取り出して広げてみると、猫の写真と「○月○日から行方不明になっています。見かけた方はご連絡ください」という手書きのメッセージだった。我が家の郵便受けは古いために雨に弱い。3週間ほど前には大雨のせいで重要な書類がびしょびしょになり、慌てて乾かした覚えがある。そのときに、沢山の濡れたちらしも入っていた。このちらしは郵便受けの天井に張り付いていて、梅雨が明けて乾いて剥がれ落ちたに違いない。
両立を諦めると見えてくるもの
新型コロナウィルス感染を避けて、5か月半も家族と会っていない。自治会の役員の任期が3月で終わり、近所づきあいも無くなった。声を出すのは毎週1回の大学のオンライン授業のみ。見えない学生(つまり、PCの画面)に向かってしゃべるだけである。外食は一切していない。正直な所、コロナ感染の不安は全く感じていない。
コロナとの共存とゼロトラスト
新型コロナウィルス感染拡大に呼応するように、サイバー・セキュリティの問題がクローズアップされてきている。勿論、コロナが無くとも重大な脅威であることに変わりはないのだが、テレワークなどのインターネットを活用しなければならない仕事が増えることで、脅威は加速されたようだ。その中で、私は初めて「ゼロトラスト(信頼しない)」がトレンドであることを知った。性善説から性悪説への変化とも言える。この考え方は、コロナとの共存でもあてはまるのではないか。
小市民の小さな冒険
久しぶりに時間を忘れて読みふけった。一冊の本で考え方がガラリと変わったのも何十年ぶりだろうか。「シベリアの旅」(コリン・サブロン著、共同通信社、2001)である。原著の出版は1999年であるから、ソビエト連邦が解体して数年後のシベリアを鉄道、バス、船、ヒッチハイクで訪れた紀行文ということになる。危険も伴う放浪の旅である。現地で会った人々について、妙な感情移入をすることなく淡々と描いていることが却って心に響く。
おひとり様のススメ
何を怖がるべきか、何は怖がらなくともよいか、毎日の自分の行動が問われている。とは言え、誰もいない原っぱの一本道を散歩しているときに新型コロナウィルスの感染を心配したり、青空が広がっているときに集中豪雨や河川の氾濫を心配することはなかなか難しい。やはり過去の経験を思い起こすことが必要である。私は、小学校3年生まで海抜ゼロメートル地帯に住んでいて台風が来るたびに恐ろしい思いをしていたので、雨戸に打ち付ける雨音を聞いただけで眠れなくなる。そのため、現在は高台に住んでいるにもかかわらず豪雨、河川の氾濫のニュースには釘付けになる。
バージェス頁岩とフェルメール
「ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語」(S.J.グールド著 早川書房1993 原著は1989)を読んだ。カバーの裏に書かれた最初の文章によれば、「1909年、カナディアン・ロッキー山中のバージェス頁岩(けつがん)から発見された5億年前の奇怪な化石動物群の分類について、発見時とその後半世紀を経て新たに行われた再解釈について書かれた本」である。素人には大変読みにくい本であるが、生物の復元画は素晴らしくリアリティがある。通常であればお目にかかりたくない形状の動物が妙に愛おしく思えてくる。
人を思う気持ちは時代を超えても変わらない
本棚から古い本を取り出してきた。「『断腸亭』の経済学 荷風文学の収支決算」(吉野俊彦著 1999)である。これは、永井荷風の日記「断腸亭日乗」を経済学者が分析したものである。私が購入したのは確かだが途中で読むのを止めたようだ。今回は時間もたっぷりあるので、最後まで読み切った。
この絵は一体どこから来たのか
引きこもり生活が5か月近く続くと、家の中にどうしてもゴミが溜まる。誰も訪ねてこないとなれば、つい片付けるのがおっくうになる。案の定、パソコンを使ったり読書をしたり、飲食をしたりする居間のテーブルの上には、紙の山ができていた。コラムのネタにするために読書しながら気づいたことを書いたり、
夏とマスクの出会い
自慢することでもないが、長年私はマスクをかけていなかった。ついでに言えば、外出から帰って手を洗うこともよく忘れた。うがいなど殆どしたことがなかった。理由は、生まれてから一度もインフルエンザに罹ったことがないので、危機意識が欠如していたからと思われる。それが今では、一歩玄関を出ればマスクをかけ、帰宅時には、孫が来た時のために買っておいて普段は見向きもしなかったハンドソープでごしごし手を洗っている。
入学時期を9月にする前にすべきこと
私が非常勤講師をしている大学の全授業がオンラインになってから1か月経った。幸い順調に進んでいる。しかし、新たな不安が出てきた。「来年の授業をどうしよう」ということである。はっきり言ってしまえば、「私の授業は教室で集まってする必要などなかったのではないか」と気づき、「今後もオンラインでの授業を続けたい」と強く思うようになったということである。その理由はコラム『オンライン化で明らかになったこと』で書いた。
オンライン化で明らかになったこと
新型コロナウィルス感染第2波に向けて、生活パターンを変えていく必要が生じている。私自身のコロナによる大きな変化は、非常勤講師をしている大学での講義が全てオンラインで行われるようになったことだろう。その指示が大学から来たのは4月の半ばである。
人それぞれやりたいことには順番がある
私には5つの長めのウォーキングコースがある。それに県立公園の散歩を加えれば1週間は飽きずに運動ができる。その一つのコースでは、家から15分ほど歩くと洋食屋さんに差し掛かる。周りに飲食店は無い。いつも2,3台の車が止まっている。
夭折した作家の遺したもの
黒いビニールに包まれた郵便物を開くと、ちょっと汚れて縁の壊れた箱に入った、ハードカバーの本が出てきた。背表紙は少し破れているけれど、中は全く読んだ形跡のないほど綺麗である。先月Amazonで注文して忘れていた「夢を喰ふ人」(松永延造著 桃源社)である。発行は昭和48年(1973年)6月。大正11年に発刊された本の復刊になる。
笊で水を汲むような読書であっても
年を取っていくと、体力の衰えだけでなく知力の衰えも感じる。引きこもりもあって時間だけはたっぷりある。そこで読書に励んでいるのだが、読んでいる先から内容を忘れていく。本屋に行けなかった分、かつて読んだ本の読み返しを行っているのだが、いつも新鮮である。
今だからこそいつもと違うことをやってみる
数日後に開始される大学の遠隔授業に向けて着々と準備は整いつつある。とは言え、初めてのことでどんなトラブルがあることやら分からない。しかし、もしもこのような事態(パンデミックによる外出規制)にならなければ、75歳の非常勤講師定年まで、いつものやりかたで淡々と講義をしていただろう。ビデオ会議システムなんてものを経験することもなく、試行錯誤しつつオンデマンド授業の教材づくりをすることもなく。またひとつ経験を積み、賢くなっていくような気がする。
気分が不安定になりがちな時の対処法
新型コロナウィルスの影響で引きこもりの日々が続く。何とか平常心でいよう、との思いから、毎日その日に行うことの計画を立て、スケジュールをこなしている。それでも、気分が不安定になることは多い。「ウツになりそう」という気分である。4月の初めの頃は、身体が不調になることの不安が多かった。「新型コロナに感染したらどうしよう」「雨が降ってウォーキングできない日が続いたら体が固まって歩けなくなるのではないか」「ちょっとしためまいがあったが何か悪い前兆ではないか」などなど、何の根拠もないのに不安が募ることも多かった。
大学で学ぶことの意味を改めて考える
新型コロナウイルスの影響で、私が非常勤講師をしている大学は、新学期の開始を5月7日としている。しかし、連日の感染拡大、医療崩壊の危機の報道などを見る限り、多分、5月の連休明けでも現在の状況は変わらないのではないか、と危惧していた。大学のぎっちり詰まったカリキュラム構成や時間数の管理を考えれば開始をさらに遅らせるのは無理ではないか。そのような時飛び込んできたのが「遠隔授業」の依頼だった。
他人との距離の変遷
誰も歩いていない道をウォーキングする。なんて空が青いのだろう。日差しは暖かく、タンポポは心を癒してくれる。一人暮らしの高齢者で、わずかな仕事も休みになってしまった私は、他人との接触が殆どない状態が続く。最後に家族に会ったのは1か月半以上前である。その時、はしゃぎまわる孫たちを追いかけ、孫の食べ残したケーキを口にしたことを思い出し、濃厚接触とはこういうことかと改めて認識した。
良識的な行動の裏に潜むもの
新型コロナウイルスの影響で家に引きこもる日々が続く。フルタイムの仕事を持たない身にはそれほど生活の変化はないはずなのだが、運動不足と塩分・糖分・脂肪への警戒心のゆるみから血圧が心配になってきている。あまり引き締めすぎると鬱になりそうで。
不要不急の判断基準
ああ、意味が分からない。頭がパンクしそうだ。こんなことを考えながら読んでいたのが『数学で生命の謎を解く』(イアン・スチュアート著 Softbank Creative 2012)である。実は、既に何年か前に読んだ本なのだが全く内容を覚えていない。しかし、つい最近読み終えた『生命の<系統樹>はからみあう ゲノムに刻まれたまったく新しい進化史』(デイヴィッド・クオメン著 作品社 2020)との関連があるのではないかと本棚から引っ張り出したのである。苦しみながらも、今回は何とか内容を理解できるようになっていた。
あなたはまだロールモデルを求めるのか
暖かな平日の昼頃、近くの県立公園では、桜の木の下で多くの家族連れがビニールシートを敷いてお弁当を広げていた。子供たちはボールを蹴ったり縄跳びをしたりしてはしゃぎまわっている。遠くではリコーダーの合奏の音色が聞こえている。新型コロナウィルスの影響で学校が休校となっても、工夫しながら何とか安全な方法で生活を楽しんでいこうとする様子が見られてほっとする。
三葉虫の目が語ること
三葉虫はカンブリア紀からベルム紀まで、つまり5億4千万年前から2億5千万年前までの約3億年間地球上に生息していた節足動物である。縦に3つの部分(中葉とそれを挟む側葉)に分かれているので三葉虫と呼ぶ。大きいものは体長60センチ、小さいものは1センチ未満まで多種類が存在する。なぜそこまで分かるのか。それは多数の化石が見つかっているからである。そして、その理由のひとつは、三葉虫の外骨格と目が方解石(カルサイト)からできているからだとされている。つまり骨が残っているのである。
覆ることを恐れない
我々人類はどこから来てどこへ行くのか。今年に入って、こんなことを考えつつ読書を続けてきた。最近出版された本では「文化がヒトを進化させた」(ジョセフ・ヘンリック著 白揚社)、「生命進化の物理法則」(チャールズ・コケル著 河出書房新社)、「オリジン・ストーリー」(デイビッド・クリスチャン著 筑摩書房)、そして「交雑する人類」(ディビッド・ライク著 NHK出版)がある。それに加えて、家に眠っていた古い本も読んだ。
危機は働き方を進化させる
もう3月になろうとしている現在、新型肺炎(新型コロナウィルス)の感染拡大は止まるところを知らない。これはテレビや新聞の報道で知るところであり、私自身は正直なところ実感がわいていない。フルタイムの仕事はリタイアしていて通勤がないし、公共交通機関の利用も多くの乗客がいない時間帯しか利用していないし、塩分・糖分・脂肪を避けるために外食をしないので飲食店にもここ1か月は行っていないし、病院もジムも無縁である。必要な物はネットで買っている。行くところといえば書店ぐらいだが、幸か不幸か書店にも人はいない。
素人の感覚と報道のギャップ
今年(2019年から2020年にかけて)の冬はインフルエンザの流行が少ないな、と気づいたのは正月休みを過ぎた頃である。大学の非常勤講師として担当している数学の授業では、年末が近づいてもマスクをしている学生がいなかった。年明けの期末試験でも病欠は無く、マスクをしている学生が見当たらなかった。
太陽が3つある惑星と地球の将来
人類はどう進化してきたのか、脳の仕組みはどうなっているのか、AIが人類を超えた後に我々はどうなってしまうのか、などを考えつつ何冊かの歯ごたえのある書物を読み進めてきた。その結果、地球人類の将来(もちろん私が死んでからかなり先の時点の)を自分なりにイメージするようになった。現段階での私の結論は、AIが人類の知能を超えた超知能になって人類を滅ぼすなどということは起こりえないのではないか、ということである。
冷静に今まで通りの行動を続けるべきか
テレビ画面に映る豪華クルーズ船。一瞬何事かと思ったら、新型コロナウィルス感染者が乗船していたため全乗船者3700人の検疫を行っているとのことである。そして2月5日には、その後14日間客室に滞在しなければならないことが分かった。乗船しているのは高齢者が多いと言うことは予想できる。サラリーマンがリタイアしてすぐに思い浮かぶのが豪華クルーズ船で(これまで苦労をかけた妻を伴って)世界一周すること、である。
冬のセミと孫から教わったこと
1月最後の週末、雨戸を開けてみると濡れ縁にセミの抜け殻が落ちていた。まさか、この暖冬でセミが間違って出てきてしまったのか。いや、どこかの木の枝にひっかかっていたものが風で飛ばされてきたのだろう。でも秋には落ち葉が沢山飛ばされてきた庭にはもう落ち葉は見られない。昨年の台風19号で破損した屋根の修理が今年に入ってようやく始まったので、ひょっとしたら屋根にひっかかっていたものが落ちたのかもしれない。でも工事は2週間以上前に終わっているのだ。思考はここで止まった。
人の進化のようにAIが進化したらどうなるだろう
お気に入りの大型書店でつい夢中で立ち読みをしていたら思いの外時間が経ってしまった。もう買うしかない。税込3960円は高額だがそれだけの価値はあると判断した。「文化がヒトを進化させた」(白揚社 2019年)である。著者はジョセフ・ヘンリックというハーバード大学人類進化生物学教授 兼 ブリティッシュコロンビア大学心理学部・経済学部教授である。
地図にない道
私にとって、毎日1時間半のウォーキングは健康長寿のための大切な習慣である。コースとしては愛犬が生きていた頃の散歩コース、県立公園の周囲および内部、など決まったパターンが多かった。最近になってそれにも飽きてきた。そこで、2019年から2020年に至る年末年始から、何か目的地を決めてその場所を目指して歩くというチャレンジを始めた。
科学は曲がりくねった道を行く
東山魁夷の有名な絵画に『道』がある。眼前にまっすぐ伸びる白い道は、混乱の中で道を見失った戦後間もない日本の人々に新たな時代への希望を与えたのだろう。しかし、今の私にはこの絵画が、何やら恐ろしい感覚をもたらす。それは、人生の折り返し地点を過ぎてしまった私にとって、まっすぐな道の先にあるのは死である。終わりはまだ見たくない。だから私は曲がりくねった道を行きたい。もっと迷いたい。
生まれ変わって前進しよう
2020年が幕を開けた。今年の元旦は、富士山と並ぶ初日の出を(テレビで)拝ませていただいた。日の出は毎日あるものの、新年に観るのは格別である。まるで自分が生まれ変わったような気分になる。また来年の元旦に向けて新たな気持ちで前進したい。このコラムは2019年の最終稿で160件に達した。開始したのは2016年10月16日である。せっかくなので、160件の記述内容がどのような傾向か、その変遷はどうなっているのかを探ってみた。
私が長生きしたい理由
2019年も終わる。あと30年生きれば101歳だ。よし、30年がんばろう。来年の今頃も、再来年の今頃も、きっと同じことを言うつもりだ。そうすれば、目標寿命はどんどん上がる。私は何が何でも長生きしたいのだ。もちろん、寝たきりでの長生きなど望んではいない。せめて国内の一人旅が気軽にできるくらいの今のレベルの活動ができることが条件である。
震災の語り部たち
2018年、2019年で3回東北を旅した。そのうちの2回は東日本大震災の被災地を巡った。2018年は女川、塩釜から松島、2019年は釜石と大船渡である。それらの土地で震災の貴重な体験を語ってもらい、我々が忘れてはならない災害に対する備えについて教えられた。東日本大震災から9年が経とうとしている今でも、強烈な体験談を聞くと胸が締め付けられ、震えが襲ってくる。
自分で考えた上での行動なら納得できる
「最期まで本に囲まれ 本を読むことを楽しみにしていた故人を偲び お送りします」これは、図書カードに添えた私のメッセージである。実は、夫は末期がんであることが判明して3週間で逝ってしまったので、ほぼ急死に近かった。その後の様々なことを、周りに相談する人のいない私は一人で考えながら行った。葬儀、お墓の購入、遺産相続の手続き、住んでいる家と土地の相続による名義変更、などなど、(税理士など)誰の手も借りず、全部自分で行った。その際、「夫は何を望んでいたのか」「子供たち、そして夫の兄弟などの親しい人たちには何をしてあげれば悲しみが軽減されるだろうか」を真っ先に考えた。その次に考えたのが私自身の思いだった。
悲鳴にしか聞こえないビールの広告
急に冬がやって来た。駅のホームで震えながら電車を待ち、車内に入るとその暖かさに幸せを感じる。とその時、ビールのジョッキを傾ける集団の吊り広告が目に入った。あれだけ夏にCMを流しておきながら、今度は忘年会を狙って冬も宣伝広告は続くのか。そんなにビールを売りたいのか?売らなくちゃならないのか?
信じたことの検証に潜むフィルタリングの罠
またも家の中から面白い古本を見つけた。「トリノ聖骸布の謎」(1995年)である。キリストの遺体を包んだと言われる布にキリストの全身像が写っている聖骸布の話は、最近もテレビの特集番組で観た。現在もどうやって写した(描いた)のか不明だとのことだった。さて25年前には何が語られていたのか、ワクワクしながら読んでみた。
古い本を楽しむ
歴史的価値のある古書などではない。文字通り「古い本」が我が家には沢山ある。断捨離の一環で一気に捨ててしまおうと思ったこともあるが、スライド式の本棚はびくとも動かず、本が詰め込まれたプラスチックの収納ケースを持ち上げる体力もなく、そのままになっていた。最近(目と腰の不調の原因ともなる)パソコン漬けの生活にも飽き、ぼんやりと背表紙を眺めていたら、結構面白そうな本があることに気づいた。
英語ができなくとも生きていけるのだが
学生時代から英語が苦手だった。大学入試の模擬試験で、必死で考えて選択した解答の正答率がランダムに選んだ場合よりも低かったときは、勉強する気を失った。それでも、何とかすり抜けて大学を卒業し、社会人になることができた。しかし、試練はそれからだった。
恐るべし山寺
毎年、11月初旬の連休前後に、一人旅をすることにしている。今年は、山形に1泊、仙台に1泊のホテルを取り、各々の土地の周辺を巡ることとした。山形から仙台までは仙山線を使い、その前後は新幹線を利用した。今年の目玉は、仙山線の旅である。
危ない、は共鳴する
毎朝、1時間以上のウォーキングを続けている。コースのバリエーションは増え、数年前まで愛犬と散歩していた道も加わった。早朝に出会うのは中高年が多い。自転車に乗っている人も結構いる。散歩ではなく仕事、あるいは家庭菜園にでも行くのか。私から挨拶することはしないが、挨拶されれば必ず返すことにしている。
成功事例はどこまで役に立つのか
日経ビジネスの2019年10月14日号の特集は「トヨタも悩む新50代問題 もうリストラでは解決できない」だった。最初に「働かない50代」の調査結果が示される。続いて、「目覚める中高年」を作るための各社の取り組みが書かれている。役職定年後の働き方や50代抜擢、定年廃止などである。次に、働く人の側からの取り組み事例としてキャリア再考、学び直し、副業の事例が挙げられる。
団塊の世代は13年前何を考えていたのか
暇ができると、何か読む本はないかと本棚を眺める癖がついた。読書が趣味だった亡き夫の遺した本には、今読んでも面白いものがある。その中に、明らかに自分が購入した新書を見つけた。「団塊格差」(三浦展著、文春新書 2007年3月発行)である。2007年と言えば、我々団塊の世代が60歳に差し掛かかろうとする時である。本書は、団塊世代2000人全国調査のデータを分析し、「格差」と言う視点でまとめたものである。調査は前年に行われただろうから、13年前の我々世代が何を考えていたのかわかるはずである。移動中に読むのに最適だとバッグに入れて家を出た。
少子化で何が悪いのだろうか
もう50年以上前、私が20歳の時である。中学時代から文通していた女友達から最後の手紙が届いた。親が決めた地元の人と結婚することになったので、もう手紙は寄こさないでくれ、という文面だった。就職して2年目の夏、有給休暇を使って南九州を旅した。ユースホステルと国民宿舎を利用する旅で、同年配の若者たちと多く出会った。同室になった会社員の女性二人組とはすぐ仲良くなった。「結婚したらもう旅行などできないので今の内に色々なところに行っておきたい」と言っていた。その後私が結婚したとき、夫の親戚から「実家に頻繁に帰るお嫁さんは問題が多い。あまり実家に帰らないように」と言われた。いずれも、私にとっては珍しい話ではなく、当時の女性たちのよくある言葉にすぎなかった。私の世代では、結婚すること、子供を産むことは当たり前であり、結婚したら自分の自由というものは無くなる、というのが常識だった。
朽ちていくのは止められないが
近所にもう何十年も空き家になっている住宅がある。建ったのは我が家より少し前のはずだから築45年といったところだろうか。年々朽ちていく様子が見える。家というものは人が住まないとなぜこのようになるのだろう。我が家はそろそろ築43年になる。子供たちが巣立って10数年、夫が亡くなって4年半、私が一人暮らしをしているこの家も見えないところで朽ちてきている。
怒りはどこから来てどこに行くのか
最近の私は、「怒り」を忘れてしまったようである。勿論、世の中には理不尽なことが多くあるのは認識している。しかし、それを見聞きした時「怒り」よりも「悲しみ」を強く感じてしまう。例えば、親に殺された幼い子供が書いた「ごめんなさい。もうゆるして」という文章をテレビで繰り返し流されると、すぐにチャンネルを変えてしまう。そのときの感情は、殺された子供の親への怒りよりも、そのようなことになってしまったことに対する悲しみの方が強い。これは何もしてあげられない自分の無力さに対するものでもある。
四方八方サギだらけ
数年前から「料金未納のため訴訟を起こされている」のハガキが届くようになった。文面は少しずつ違っていて、問い合わせ先の組織名は様々であるが、趣旨は同一である。要するに、裁判にならないようにするには下記の連絡先に電話しろ、ということである。最初はびっくりして、ネットで検索した。思った通り詐欺だった。それ以降は、同じようなものが来てもゴミ箱に入れていた。詐欺グループは複数あるらしく、1日に2通も来たことがある。しかも詐欺ハガキを大量生産するためインクが切れかけたのか、かすれて読めないものまで送られてきた。電話帳とプリンタさえあればできる詐欺なのだろうが、ハガキ代だってばかにならないだろうに、と呆れる。
ボーっとしていても発見することはある
週の内の大半は「仕事場」に籠ってパソコンに向かっている。最近はRaspberry Piで画像処理をしようとして落とし穴にはまり、2週間も抜け出せなかった。パソコン用の眼鏡を使っていても、当然目は疲れる。4か月前に苦しんだ腰痛の再発を恐れて幅広のゴムのサポーターは常に付けたままである。しかし、今度は腕の付け根が痛み出した。さらには足がパンパンにむくむようになった。身体を動かさなければならない。スポーツ嫌いの私にできることと言えば、ウォーキングしかない。
AIの助けを借りても最終判断をするのは人間
日経ビジネス2019年8月26日号の「できる若手がなぜ辞めた」という特集記事において、AIの力を借りて社員の離脱防止をするという話題が出ていた。そこに、離職兆候をAIで検知するシステムKIBITが紹介されており、離職リスク判定事例として「面談が必要」と判定された文(A)と「面談は不要」と判定された文(B)が並んでいた。驚いたことに、いずれもこれまでよく見かけていた文章だった。
ギガに泣く夏よ何処へ
一年中が夏休みみたいな生活になりつつある71歳の私でも、夏休みはウキウキする。この夏は「仕事場」に籠ってRaspberry Pi(ラズパイ)で大いに遊んでやろう、Pythonの勉強もしっかりやるぞ、などと張り切っていたのはほんの1か月前である。しかし、そこには大きな落とし穴があった。そもそも「仕事場」にはネット環境がない。wifiが使えないのである。であればwifiの契約をすればいいだけではないのか、と誰もが思うところだが、無駄遣いが嫌いな「ケチケチ婆さん」の私は、それをせずにiphoneのテザリングで乗り切ってきた。少なくとも7月までは。しかし8月はその思惑が外れてしまった
絵画は観て楽しんでこそ価値がある
父の誕生日が過ぎた。生きていれば101歳であるが、97歳で他界している。父は90歳近くまで技術者として働いていた。勤めていた会社がローカルなテレビ番組で取り上げられたとき、父が大きなパソコンの前で操作をしている映像が一瞬映ったが、誰も90歳近い老人だとは気づかなかっただろう。(番組自体は新技術開発を取り上げたもので、高齢者の就業問題は関係なかった。)80代の頃は、遠隔地の工業製品展示会において、機械の設置から説明員まで一人でこなしていた。
再びの子育て(ラズパイ編)
Raspberry pi 3 B+(ラズパイ)でもう少し高度なこともやってみようと、カメラで撮影した画像の分析に挑戦することにした。人の画像の顔認識や、動くものの検出などができることが目標である。まずは、動画の画像処理のプログラム(SimpleCV)を(ちょっともたついたが)インストールした。ところが、肝心のカメラが認識されない。これまで、孫たちの動画など撮影して楽しんでいた「正規品のカメラモジュール」である。接続するのが結構難しくよく外れるので、扱いには苦労していたのだが、きちっとはめているはずなのになぜだろう。こちょこちょと触っていたら、悲劇は突然訪れた。
女系5世代の違いとは
家族だけで写真や動画を共有するSNSをしている。先日も可愛い動画がアップされた。歌を歌ったり、お絵かきをしたりしている幼子の周りを背後霊のようにうごめいている、やせこけた婆さんは私の母?祖母?そんな訳はない。私だ。そう気づくまでに一瞬時間がある。それだけ、今の私は母にも祖母にもよく似ている。年齢を重ねるにつれ、ますます同じに見えてくる。そして私に続くのは、2人の娘たちと2人の孫たち。全て女性である。
我が家は絶滅危惧種なのか
70歳まで50年近くフルタイムで働いてきたが、ようやく自由な時間が取れるようになった。今幸せに感じることは、ずっと3時45分に設定されていた目覚まし時計を使わずに寝ていられること、そして、テレビを好きなだけ観ていられることである。それが分かっているのか、我が家のポンコツテレビは最近調子がよく、以前のように叩かないとつかないということがなくなった。
感覚が理屈に勝ってしまうとき
北千住駅(東京都足立区)にはJR常磐線、つくばエクスプレス、東京メトロ日比谷線、東武伊勢崎線、東京メトロ千代田線が乗り入れている。ルミネ側の改札口から下り方向を見たときに、一番左側に常磐線、その右隣りにつくばエクスプレスがある。私の頭の中ではこの順番がしっかりと刷り込まれていた。ある日、つくばエクスプレスの「八潮駅」が埼玉県であることを知って、天地がひっくり返るほどびっくりした。
初めてのプログラミング言語の学び方
大学の常勤の仕事(特任教授)を定年退職して早くも3か月半になる。非常勤講師の仕事は週2回であるので、時間はたっぷりある。その間、一番時間を費やしているのがプログラミング言語Pythonの勉強である。きっかけは、退職直前に買った本@「Raspberry Piではじめる機械学習」(講談社)と合わせて買ったRaspberry Pi3 Model B+(以降、ラズパイ)だった。
様々な「事実」との付き合い方
10年日記を4半世紀書き続けている。時間があれば同じ頃にあった大きな出来事の前後の記述を読み返す。7月の今頃であれば、2年前の腸閉塞による入院、手術から、退院後の無理な仕事によって歩けなくなったことが大きな出来事にあたる。というわけで2017年の7月から8月にかけての日記を読み返したのだが、記憶と大分ずれがあることに気づいた。
日本人は「みんな」が信じていることを信じる
大学の情報倫理の講義の中で、必ず学生に意見を出してもらう課題がある。それは、「インターネット上でデマ情報が拡散するのは何故なのか。それを防ぐための方法は何だと思うか。」である。議論のたたき台として、架空の学生の意見を示す。その概要は以下の通りである。『SNSの世界では同じ考えを持つ人達がグループで固まるという状況になりやすく、グループにとって都合の悪い情報は確認しない。
働き続ける日々に感じる違和感
金融庁が6月初めに公表した「高齢社会における資産形成・管理」によれば、年金だけで老後を一生暮らすのは無理で、平均2,000万円の資金が必要らしい。これが日本中で大きな議論になっているというニュースを見てびっくりした。2,000万円という額ではない。多くの人が年金だけで現在と同じレベルの生活が一生続けられると思っていたらしい、ということに対してである。それほど日本人は楽観主義者の集まりなのか?
マイルールの変遷
マイルールという言葉を知ったのはごく最近である。意味を調べる必要すら感じず、すっと入ってきた。「座右の銘」とか「信条」とか「クレド」のように大げさなものではなく、普段の行動指針、むしろ生活習慣に近いものではないかと思われる。それであれば、私にも他の人とはちょっと違うマイルールは存在する。それらは、生活環境が変わるにつれて変わってきているはずだが、変わらないものも存在する。
白雪姫さんごめんなさい
65年前のことである。私は一年保育で幼稚園に在籍していたが、殆ど通っていなかった。今で言う登園拒否である。原因は精神面、健康面の問題が複合していたのだろうが、とにかく行きたくなかった。両親は幼稚園を止めさせることを考えたが、当時、幼稚園の卒園証書をもらうということはステータスであり、止めてしまっては後々禍根を残す、という祖母の(根拠のない)主張により撤回された。
気にすることは一つで十分
最近、電車の中の広告が変わってきたように思う。かつては『週刊〇〇』や『週刊△△』のつり広告を目を凝らして読んだものだが、最近は見かけない。鉄道会社や路線によっては、空いているスペースがかなり見られる。鉄道会社の作ったマナー広告で埋め尽くされることも目立つようになった。最新の車両にあるデジタルサイネージ式の広告は同じパターンを繰り返し流すもので、どちらを見ても同じものが目に入って疲れる。
コストパフォーマンスを考える前に
月末が近づいた。今月もまた、携帯会社からいつものメールが届いた。「契約のデータ容量を超えましたので、通信速度を低速にいたしました。」というものである。私は慌ててデータ容量追加申し込みをして、通信速度を戻してもらう。これを月末まで3,4回繰り返してようやく新しい月が始まる。
世界中の人が教えてくれる
Raspberry pi(ラズパイ)を使った電子工作として今あるもので何かできないか、と探していたら、「天気予報のウェブサイトから希望する地域の天気予報を取り出して、結果をLEDの点滅で知らせる」というものが見つかった。探す、とはもちろんGoogle検索である。Pythonのプログラムもついていたので、あっという間にできてしまった。ずっと晴ればかりだったが、先日、雨を確認することができた。
サバティカルでいいじゃないか
週2回の大学での講義、機械学習の勉強、Raspberry Pi(ラズパイ)の工作をしながらPythonのプログラミングとIOTの勉強、そして、天気の良い日はウォーキング、と充実した日々を送っている(つもりである)。今日はこれをやろう、明日はあれをやろう、と考えるのも楽しい。でも、ふと、サラリーマンの習性が顔を出す。毎日会社に行き、週末に休み、夏休みの旅行を楽しみに1年間を過ごすという、あの生活パターンである。現在の生活パターンは何だか、仕事をさぼっているみたいで申し訳ない。
ラスト1マイルの解決が決め手
ほぼ自由に予定が決められる身になっても、連休というのはワクワクするものだ。平日と変わらないはずなのに、10日間はずいぶん色々なことをしたように思う。私の『仕事場』では、raspberry pi(ラズパイ)からキーボードとマウスが外され、ラズパイ用のカメラはラズパイ用のケースに張り付けた状態でちんまりと置かれるようになった。
インドア派はどう体を鍛えるか
毎月1、2回は、何らかの飲み会に参加している。殆どが学校時代の同期会や昔の仕事仲間との集まりである。だから同年代が多くなる。話題は様々だが、体の不具合に関するものもよく出る。しかし、考えてみれば、本当に体が悪ければ、わざわざ時間をかけて飲み会に出てくる気力などないはずで、集まれることこそが「元気である」証拠なのだ。
ちょっとした工夫で幸せを感じる
何といっても私の最大の喜びは長い間の懸案だった事態が解決することである。最近では、何週間もひっかかっていた、JavaのプログラムからmySQLのデータベースにアクセスできない問題を解決できたことが大きい。本当は解決できたとは言い切れない。なぜできなかったのか、なぜそれができたのか、については想像の域を出ていないからである。
デジタル化の問題をアナログで解決
最近、問題解決に明け暮れている。とは言っても、それほど重篤な問題でもない。多くは、趣味の域を出ないプログラミングの勉強にかかわるものである。一昨日は、もう2週間以上も悩み続けたJavaのプログラムの実行時の問題が一挙に解決した。いずれも大きな原因は、使っているフリーの開発環境やモジュール類のバージョンの不一致だが、もちろんプログラム自体のコーディングのミスもあった。
踊り場だったような平成
私は現在70歳である。昭和に40年間、平成に30年間生きてきた。長さからすれば、4対3ということになるが、感覚的には、5対2、ひょっとすると6対1のような気がする。それだけ昭和は長く感じられる。それはそうだろう。昭和時代の40年間のうちに、赤ん坊から学生、そして社会人、母親となり、それなりに一人前の働きができるようになったのだから。40歳の私は自信に満ち溢れていた。
ラズベリーパイとiPhone
大学の専任教授の定年である70歳を越えたので、居室も研究室も無くなった。そこで、『新しい仕事場』を作り、プログラミングやAIの技術などの勉強をすることにした。最近新しい玩具を見つけた。きっかけは、本屋で「RaspberryPi(ラズベリーパイ)ではじめる機械学習」というBlueBacksの本を見つけたことである。これで、LINUXとPythonと機械学習までも学べる。
これが現代のプログラミングか
実は、もう30年以上プログラムを書くこと(プログラミング)をして来なかった。最後に使っていたのはC言語というものである。その前はアセンブラを使っていた。いずれも、機能を決めて、まずはフローチャートを書いた。そのために四角やひし形やらのマークがくりぬいてあるプラスチックのテンプレートという定規みたいなものを使っていた。アセンブラのプログラムを書いていた時は、プログラムは紙(コーディングシート)に書いて、キーパンチャーにカードにパンチしてもらい、それをコンピュータに読みこませてデバッグをしていた。
サブスクリプションは話題のキーワードだが
「何だ、いるんじゃないの。引っ越したかと思ったのに。また新聞取ってくれませんか?」その声を聞いたときの私の狼狽ぶりが恥ずかしい。明らかに私が悪い。嘘をついていたのだから。40年以上取っていた新聞を止める理由として、一番スムーズに受け入れられるのが『引っ越し』だと思い、つい電話でそう言ってしまったのだ。確かに10秒で止められたが、まさか確認に来るとは思わなかった。正直に「電子版に変える」と言えば良かった。
簡素に生きるか豪華に行くか
70歳代になって60歳代までと意識が変わってきた気がする。大きな変化は、高齢者をよく見る(観察する)ようになったことである。それまでは自分よりも若い世代、具体的には40歳代、50歳代が気になっていたのだが、何となく彼女たち(彼ら)は別世界の人間に見えてきた。自分の将来を考えるためにも高齢者をよく知らなければなるまい。
三歳児神話なんてもう古い
毎年、40年以上前に一緒に仕事をした方々と集まる。私が最年少なので、全員が70歳代以上ということになる。その時出た話題に、「音楽でもスポーツでも、多分囲碁や将棋でも、3歳までに始めなければトップにはなれない」というものがあった。私は反論した。トップになれる人は遺伝的な影響などから他の人とは違うものを持っていて、それを助ける意味での早期教育は有効かもしれないが、大半の3歳児に無理に早期教育などしたら、却って悪い影響を与えるのではないか、と思ったからである。
思い出はつながってこぼれ出る
自治会の役員もそろそろ任期が終わる。ゴミ収集の問題が出たときにふと昔のことを思い出した。42年前、引っ越して間もない頃である。当時の私はまだ28歳、現在の自分の子供たちよりずっと若かった。昼間(午前か午後かは覚えていない)、中高年と思われる女性から電話がかかってきた。その人は自分の住所と名前を告げた上で、「今朝ゴミ置き場で仏壇が捨ててあるのを見つけたのですが、お宅ではありませんか」と切り出した。
やらされ感という言葉に対する違和感
最近、「やらされ感」という言葉を知った。文字通り、仕事をやらされていると感じることらしい。何を今さら、という気がしないでもない。マンガを読みふけっている子供に「宿題やりなさい」と親が言うと、「いまやろうとしていたのに」と子供は言う。子供にとっての「やらされ感」だろう。子供が自分から勉強をしたくなるような親のふるまい方については昔から色々語られてきたはずである。
理解ができないことと付き合う
1年8か月前に腸閉塞の手術をした。自宅で痛みに耐えられなくなり自力で救急車を呼び入院。七転八倒の挙句2日後にようやく手術して痛みから解放され、11日で退院した。しかし、歩けなかった。左足が上がらず、足のつま先がしびれていた。それから2か月間、杖をついて過ごした。杖なしで歩けるようになっても、走れるようになるまでにさらに3か月ほどかかった。
月はどちらに出ている?
3年半前に17歳目前で亡くなった愛犬は、何の芸もできない臆病者の駄犬だったが、絶対方向感覚(そんなものがあるとすれば)を持っていたと信じている。歩行が困難になってきた最後の1年に至る前の7年間位、毎週末の早朝は、2時間半ほど私と散歩した。地図など持たず、市内、および隣接する市や町までくまなく歩きまわった。
見えているものの大きさ
つくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道)で筑波方面から北千住に向かっているとき、流山あたりを走行中、右側の窓から白い(誰でも知っているような)山が見えた。一瞬「筑波山?なわけないよな。形が違うし、そもそも方角が違う」と混乱した。それが富士山だと認めたくない気持ちが働いた。だって千葉県から富士山が見えるなんてあり得ない。でも、あんな三角形の白い山がどこかにあったっけ。
人間らしさとは
これまで何度かこのコラムで書いてきたことの中で「訂正した方がいいかもしれない」と思われることが出てきた。叩かないと電源が入らず、殆どBSチャンネルしか観られないポンコツ・プラズマテレビと、立ち上がるまでに1時間以上かかるデスクトップ・パソコンについてである。この1、2か月は、テレビは電源が入らないこともなくどのチャンネルもはっきりと映るし、パソコンも我慢できる程度に素早く立ち上がるようになった。ついでに、代わりを購入済でいつでも引退できる状況にあるプリンタも仕事をしてくれている。
人間の複雑さはAIには超えられない
2019年の始まりにあたって、100歳を超えるまで元気に活動し続けることを誓った。とはいえ、このまま漫然と過ごしていたら、歳をとるだけで何もできなくなる可能性がある。元気に活動するためには、まず体が動かなければならない。これについては、パワースーツの着用などでカバーできる可能性は高い。それでも無理になったら、介護ロボットを雇って助けてもらおう。移動はもちろん無人のタクシーが担ってくれる。遠方なら無人の空飛ぶタクシーを使えばよい。問題はそれに使えるお金があるかどうかである。というわけで、新年から財布の紐をきつく締めている。
挽きたて淹れたて番茶も出花
娘が有名コーヒー店のコーヒー豆をプレゼントしてくれるというので、コーヒーミルを購入した。実をいうと、私はコーヒーが大好き(というか殆どコーヒーしか飲まない)なのだが、コーヒーに関する知識は殆どなく、味にこだわりがあるわけでもない。でも、有名店のコーヒーなら、それなりに気合を入れて味わわなければなるまい。
ボーっと生きてんじゃねーよ!
1週間前(12月14日)に仕事で沖縄に行った。那覇市内で会議を終えて外に出ると、夕方6時だというのにまだ明るい。東京周辺では夕方4時半になれば暗くなってしまうので、「さすが沖縄」と何だか得した気分になった。そうは言っても、かつて広島に住んでいたときの記憶では、日の入が遅い分、朝はいつまでたっても暗かった。そこから推測するに、明日の朝は8時ごろまで暗いのではないか。それはちょっと寂しい。そんなことを考えつつホテルに向かった。
歯を食いしばる
まったく、70年生きてきたのに知らなかったこと(と言うか、知らなかったと知ったこと)が増える一方だ。さらには、理由のわからないものの存在も多くなっている。電車に盛んに広告出している100円だか0円だかの脱毛のエステサロンはどういうビジネスモデルになっているのか。(何となく想像はつくが)。
古希の就活
我が家には、どう見ても役立たずで、普通の感覚であれば買い替えをすべきと思われる機器が2つある。ひとつは、時々叩かなければ電源が入らなくなるプラズマテレビである。最近は私の怒りにおびえたか、なぜか電源が入るようになっている。しかし、天候次第でほぼ全てのチャンネルの電波の受信ができなくなるアンテナとタイアップして、利用者(私)の満足度を著しく下げている。もう一つは、立ち上がって使えるようになるまでに1時間以上もかかるデスクトップパソコンである。
グリーン車のステータス
上野駅の在来線ホームで列車を待っていたら、前に立っていた幼女にお母さんがグリーン車の説明をしていた。その際「お席が決まっていて必ず座れる」と言っていたので、ちょっと気になった。そう言えば3年ほど前に、私の娘が小さな孫を連れて移動するのにグリーン車に乗ることになり、ホームでグリーン券を買う際に「座席番号の指定のしかたがわからない」と騒いでいたことを思い出した。
切手を貼る楽しみ
私が(このコラムを書く以外に)毎週欠かさず行っていることがある。94歳の母に手紙を出すことである。メールでも電話でもなく、便せんに手書きで書いた手紙を封筒に入れて、ポストに投函しているのである。土曜日の夜にその週にあったことなどを大きな文字で書き、日曜日の朝にポストに入れに行く。月曜日か火曜日か、毎週決まった曜日に母のところに届いているはずである。
センサーはどこを見ているのか
我が家で急激に増えているものがある。人の動きを検知して灯りが点くセンサーライトである。思い起こせば、何年かおきにマイブーム的に購入、設置してきた。それが邪魔で鬱陶しくなったり、年月を経て壊れたりしてだんだん使われなくなる。そして、また必要性を感じて購入、設置するということになる。
失敗を楽しむ余裕
毎年11月の初めに大学のまとまった休みがあるので、ひとり旅を楽しんでいる。殆ど1泊2日である。大人の休日倶楽部パスを使って運賃を3割引きにし、浮いたお金で温泉と朝食付きのビジネスホテルに泊まるのが定番になっている。安上りな旅である。去年は富山、高岡、金沢を回った。今年は仙台と松島に行くことだけ決めて、東京と松島海岸までの往復切符を買い、仙台のホテルを予約した。
先人の知恵の賞味期限
私は目的や場所に合わせて5台のパソコンを使っている。最近そのうちの1台が、立ち上げるとすぐ(パスワードを入れる前)に「アプリケーションエラー」の表示を出すようになった。OKを押せば後は問題なく動くのだが、どうにも気持ちが悪い。そこで、エラーコードを使ってGoogleで検索してみた。案の定、というか予想通りというか、原因はすぐに判明した。フリーのセキュリティ(アンチウイルス)ソフトAをインストールしたからである。結局、仕事に影響しないのでそのままにしておくことにした。
曖昧な知識からは将来は見えない
大学で私が立ち上げた創造性開発研究室では、所属する各学生が持ってくる課題に対して、現状調査を行い、本質的な問題を定義し、その解決策を発想する。なぜか今期はソーシャルゲームやe-sportsなどのゲームのビジネスに関するものが多いのだが、現在の農業や流通業の抱える問題の解決、少子化対策や働き方改革に関するテーマなどもある。多様なテーマの各々について、私も一緒に解決のためのアイディア出しを行う。
差し上げますが盗られるのは嫌
世の中には、自分で持っているだけでは価値がないけれど他人にとっては価値のあるものは沢山ある。自分には必要のない者を他の人に譲ることによって対価を得るのは、提供する側にとっても受け取る側にとってもメリットがあり、仲介する人に謝礼を渡すのをいとわないのは理に適っている。ここで売り手、買い手、仲介業者のwin-win-winの関係が築けているわけである。私も売れるものがあれば売りたいが、残念ながら誰も買ってくれそうにもないものばかりがクローゼットを占拠しており、衣類の回収日にゴミステーションに送られるのを待っている。
俊足の刑事は泥棒を捕まえ縄を綯う
休みの日の午後、時間があれば2時間ドラマの再放送を観ている。再放送されるということは評判が良かったということであり、いつも期待を超える感動を得ている。正直なところ、本放送よりも外れがない。殆ど全てが刑事ものである。そして大抵、刑事は犯人が立ち寄りそうなところを見張ってはいるものの、逃げる犯人を追いかけていて取り逃がしている。あちらの道を通りそうだと先回りして捕まえたケースは1度しか見たことが無い。
やり残したこと
平日は大学で講義とゼミ、週末は自治会の仕事、その合間を縫って孫の保育園の運動会に行き、実家の近くの施設に入っている94歳の母を訪ねる。こうして隙間なく予定が詰まっているが、月命日の夫の墓参りも欠かしてはいない。しかしこの忙しさも来年の3月で終わる。大学は定年となり、自治会の役員の任期も終了するからである。もちろん技術士事務所は継続しているが、大学の仕事がフルタイムだったせいで営業活動がおろそかになり、事務所は大赤字が続いている。その対策は打っているのだが、新たな人脈作りはとても難しい。
研究テーマの選び方
大学は新学期が始まり、私の「創造性開発」研究室も所属学生が決まった。まずは、一人ひとりと面談して、研究テーマを決めることから始めた。共通しているのは、「自分で問題を発見すること」「その解決策を発想すること」である。それらに使えるツールは用意されているが、それを使わずに自分で探してきても良い。半年で成果物をまとめ、発表する。