昨年の今頃は、新型コロナウィルスの感染が拡大し始めていて、目に見えぬ恐怖におびえていた。その時は甥の結婚式に招待されていたのであるが、予定通り行われるのかどうかも心配だった。結局、延期さらには親族だけで行うとのことで、私自身は出席しないことになった。結婚祝いは現金書留で送ることにした。それまで現金書留の必要性を殆ど感じていなかったが、キャッシュレスではできないやり取りというものもあるのだ、と実感した。そのときは、もうこのような使い方はないだろうとも思っていた。
一年経ってもコロナ禍は収まらず、またしても現金書留を送ることになった。今度は孫の小学校入学祝いである。当初はお祝いを持って孫のところを訪ねるか、子供たちと孫たちに来てもらって一緒に食事をしようと思っていた。しかし、相談した結果、まだしばらく会うのは止めようということになった。そこで、「入学おめでとう」のかわいらしい熨斗袋を買って、お祝いを送ることにしたのである。
96歳の母は実家の近くの高齢者施設にいる。母は手足が不自由で電話を取ることができないため、コミュニケーションの手段は直接会うか手紙しかない。直接会うことは、遠方のためなかなかできなかった。そこで、毎週、手紙を書いて送ってきた。目もよく見えないので大きな字で一行おきに書き、毎回便箋2枚程度である。季節の変化、子供たち(母にとっては孫)、孫たち(母にとってはひ孫)の話題、母や私自身の健康のことなど、どうということでもない話題である。返事は来ないので果たして読んでくれているのかどうかも分からないが、読んでいると信じて送り続けてきた。
コロナ禍になって、同じ県内に住む弟ですら母との面会が許されなくなっている。最近になって、施設からの報告で、食欲はあるが寝ている時間が長くなり「夢と現実が混在しているような感じ」になってきたということが分かった。ついにこの日が来たか、という思いである。これでは、手紙を読んだとしても、誰のことやら何のことやら分からなくなっているかもしれない。もしかしたら、ベッドの脇に積んであるだけかもしれない。一瞬落ち込んだが、すぐに考えを改めた。きっと、施設の方は「娘さんからですよ」と手紙を手渡してくれているだろう。「厚子」という名前を見て娘の存在に気づくはずである。それが毎週続けば、母の頭の中には私のことが残るはずである。
先日、ウォーキングの途中で郵便局に寄って現金封筒と84円切手を買った。これまでは、シール式の記念切手を何種類か用意して毎回違うものを貼ることで変化を持たせてきた。今回もそうしようと思っていたのだが、記念切手はどれも売り切れだった。手紙を書く人は結構多いのかもしれない。それもコロナで会えないことが理由で。
キャッシュレス社会になっても現金でなくては伝わらないことはある。ネットや電話があっても使えない人はいる。直接会うことができない時、コミュニケーションをとる最後の手段が郵便なのではないか。「もうすぐ新しい記念切手が出ますよ」と郵便局の人が言っていた。また買いに行こう。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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郵便は最後のコミュニケーション手段か
2021.03.07