新型コロナウイルスと東京オリンピックが国内の話題の中心として固まっているが、もう一つ根強いのがジェンダー問題である。こう書いているが、事前にジェンダーの意味をスマホで調べたことを白状しなければならない。ジェンダーについては私が若い頃から問題としてとらえてきたこと同じだったので、ひとまず安心した。しかし、どうも、マスコミなどが伝える世間のジェンダー意識と私自身の意識がずれているような気がしてならない。
東京五輪組織委員会の元会長の森氏の発言について聞いたとき、「年を取ると思ったことをすぐ口に出してしまって困ったものだ。黙っていればいいのに」と苦笑した。しかし事態は大きくなり森氏辞任に結びついたのは正直驚いた。次に起きた五輪開閉会式演出の統括役である佐々木氏の辞任騒ぎのときは、「つまらない演出案を出したことがばれてクリエーターとしての資質が問われたため、恥ずかしくて辞めたのだろう」と思っていたら女性蔑視だと聞いて驚いた。さらに、ニュース番組のCM動画が問題となったときは、その動画を見て様々な人の解説まで読んだのに、何が問題なのかさっぱり分からなかった。明らかに私の感覚と世の中の感覚には大きなずれがある。
私自身、ジェンダーの問題と取り組み続けてきたという自負は持っている。18歳で実家を出るまでは父親と、就職してからは上司や同僚と、結婚してからは夫とのジェンダー・バトルを繰り返してきた。その結果、理系の大学に進み、技術者として、大学教員として働き続け、72歳の現在に至っている。ところが、この話題を出すたびに周りとのギャップを感じてしまうようになり、ここ数年話題に出すのをためらうようになった。
例えば、娘から仕事と子育ての両立についての悩みを聞かされた時、つい「私の頃はもっと大変だったのだから頑張りなさい」と言おうとして言葉を飲み込む。女性管理職の割合が増えないことが問題だというニュースを見ると「私が就職したときは、女性は定年まで勤めても絶対に管理職にはなれないと言われていた。それに比べれば機会が与えられているだけずっと恵まれている」と言いたくなってぐっとこらえる。それを言ってしまえば、「はいはい、大変な時代をがんばってきてここまで来られた私って偉いでしょって自慢したいわけね」と言われ、もう何も話してもらえなくなるのが落ちだからである。なぜこのようなギャップが生じるようになったのだろう。
ジェンダー意識の基準をどこに置くかということが問題なのだと最近気づいた。私は明らかに「昭和」が基準になっている。男女の役割分担がはっきりしており、セクハラが日常茶飯事だったあの頃である。大半のシニア世代がそうだと思う。その基準からみれば現在はジェンダー格差がずいぶん狭くなっていると思ってしまう。しかし、それが間違いなのだ。基準は「現在の世界の状況」としなければならない。基準が変われば評価も変わる。明らかに現在の日本の社会は世界の中で見ればジェンダー格差が大きいのだ。
頭では分かっていても、昭和に生きてきた私たちに染み付いた感覚はなかなか消えない。やはり、ジェンダー問題について語ることは私や同世代の人には無理だと思っている。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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昭和育ちのジェンダー意識
2021.04.11