高校の同期のメーリングリストで、ちょっとだけ盛り上がった話題があった。きっかけは、ある全国紙に投稿された短歌に対する選者のコメントに対する意見である。その短歌はLIFE(人生)にIF(もしも)が含まれているということを歌ったものだった。私には短歌自体にも選者の言葉にもメーリングリストで語られた内容についても、あまり共感するものはなかった。ただ、もう70歳を迎える(迎えた)、立派なキャリアを持った(言ってみれば)功成り名を遂げた同期の男性たちが、まだ、過去の自分の選択に対してIFに拘っていることに驚いた。「別の選択をしていたらもっと得るものが多かったのではないか、なんてこれ以上を求めるのは欲張り過ぎではないか」と思ったのである。
私自身も何年か前にIFを考えたことがある。つまり、それまでの自分の選択が違ったものだったら人生が変わっていただろうか、と考えてみたのである。前提として言っておきたいのだが、ここで述べているIFには自分の制御の及ばない範囲の事象は対象としていない。人生の分岐点で自分自身が判断して道を選ぶときのIFである。例えば、女性の、男性と違ってキャリアに大きく影響する次の様なことは対象外である。『もしも私が男だったら』『もしも私が均等法成立以降に就職ができていたら』『もしも私が美人だったら』などなど、ドラえもんのいる世界で考えればいいことである。あくまでも、自分自身で選べることに対するIFである。
結論としては、「どんな選択をしても結果はほぼ同じ」だった。どの大学に進学しようと、どの専門に進もうと、どこに就職しようと、だれと結婚しようと、多分、現在と同じような生活をしているのではないか、と思ったのである。選択したものが違っても、ルートが変わるだけでたどり着くところは結局同じということである。それは、自分がこうありたいと思っている方向で、自分の力の及ぶところに結局は行きつく、ということである。小学生の頃に夢見ていたロケットを飛ばすことも、ノーベル賞を取ることも決してなかっただろうということは断言できる。それは、それを望んでいたのに努力が不足していてできなかったからではなく、心の底ではそれを本当に望んではいなかったのではないだろうか。結局、着地点は道の選び方で決まるのではなく、そこにたどり着きたいという意思の強さで決まるのだ。過去のIFをいくら見直してみたところで意味はないというのが私の意見である。
それでは、人生においてIFを考えること自体に意味はないのか、というとそれは違う。自分の目的に向かってどちらの道を歩むのが成功につながるのか、を考えるときにはIFを吟味する必要がある。間違えた道を選択してしまったと思ったら、次の分岐点でまたIFを吟味し、目的に向かって軌道修正するのである。IFに意味があるのは過去ではなく未来を見つめるときである。私にとってLIFEの中のIFは過去を振り返るためにあるのではなく将来の目標の実現のためにあるのである。
100歳までにはあと30年ある。これから何をすべきか、そのためにどの道を選ぶべきかを考えるときIFが役立つはずである。だからこそLIFEにはIFが必要なのである。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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人生のIFは何のためにあるのか
2018.09.16