死後の世界とか、霊魂とか幽霊とか、UFOとか宇宙人とか、様々な超常現象などを私は信じていない。言い換えれば、そういったものが存在しないことを信じている。それは、存在することが理解できないから信じないのではない。私の頭では理解できないことは世の中に無数にある。でも、誰かがその存在を否定してくれ、その否定した理由が理解できれば私は否定した側についてしまう。結果として様々な超常現象が存在しないことを信じる。 面倒な言い回しをしたが、要するに、私は単に超常現象の存在を否定するテレビ番組を観ては、「やっぱり嘘だったんだ」と半分がっかり、半分ほっとしているだけである。
理解するための条件は色々あるが、自分でそれまで考えてきたことと矛盾しないことが大きいと思う。例えば、有名な事例『顧客データを分析したところ、紙オムツを買う客はビールを買うことが分かったので、両者を隣り合わせに置いたら売り上げが伸びた』という話を疑いもなく信じる人が多いのは、それが常識と矛盾しないと大多数の人が感じたからだろう。別に論理的に因果関係を分析しなければ信じないという訳ではない。ただし、理解するためには、常識として一般人が捉えているものと対比させられる分かりやすい説明が必要である。難しい数式は必要なく(あると却って分からなくなる)、むしろ心理学的な根拠みたいなものを示されると分かった気がしてくる。あとは、権威ある論文や権威ある学者や有識者と言われる人の存在も「よく分からないけど本当かもしれない」と思わせる。
個人情報を含むビッグデータが大企業を中心に収集され、分析されて活用されている。分析した結果、常識では考えられない事象が見いだされた時、果たしてそれを信じられるだろうか。ビッグデータの世界では因果関係が分からなくてもよい、とする風潮も見られる。とすると、常識に反し、分かりやすい説明もなく、権威ある論文も有識者も存在しないものをどうやって信じたらよいのだろう。
さらに厄介なのがAI(人工知能)である。すでに人間の制御を離れてAI同士で学びながら知識を増やしつつある。AIが人間の常識から外れる指示を出してくる日も近い。それを信じて指示に従うべきか、どうやって判断したらよいのだろうか。判断のための別のAIを創る?それは信じられる?スティーブン・ホーキング博士が「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」と警鐘を鳴らしたのも、同じようなことかもしれない。世界中の誰も正誤を判断できないものを信じなければならない時が近づいている。
ここまで来て気づいた。太古の人達は自分の理解できないものを信じていたのではないか。近代以降でもそうである。〇〇の大予言、星占いなど、現代でも信じている人が多く存在する。人間というのは究極的には「理解できなくても信じる」ことができるのかもしれない。ということは、ガラス玉の中を覗いて判断を仰ぐように、人工知能に判断をゆだねてしまう日が来るのだろうか。つまり太古に戻るということである。信じられないけれど本当のように思えてきた。怖い。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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理解できないことを信じられるか
2018.09.09