毎年4月から7月までの4か月間は、月曜日から土曜日まで大学に出るのでとても忙しい。特に今年は自治会の役員もしているので、日曜日も会議があって休めない。平日は家を6時半に出る。土曜日だけは掃除などをするので7時半に出る。日曜日は自治会の集まりの前にスーパーで買い出しをし、パン焼き機で1週間分のパンを焼く。何とゆとりのない生活か、と思うのだが、実は、すごく暇なのである。
暇というのは「時間がある」ということである。確かに、平日でも土日でも朝は分刻みですることが詰まっている。しかし、家を出てしまえば、通勤時間片道2時間は自由である。かつてはバスの中も電車の中もホームで立っている時間も暇だった。最近は、新聞を日経電子版に変えたので、自宅のパソコンで読み切れなかった記事や最新の記事をスマホで読むため、この「暇」は無くなった。しかし大学に着いてしまうと、授業の準備、授業、学生のレポートのチェック、卒業研究の指導、3年生のゼミの指導、と予定は入っているが、それらをこなすのに分刻みということはない。隙間時間、待ち時間がかなりある。それが「暇」なのである。
もちろん新技術や新ビジネスに関しての勉強はしている。しかし、外に出て新しいビジネスのネタ探しをするほどのまとまった時間はない。隙間時間は1時間未満のコマギレだからである。これを漫然とやり過ごしている自分が許せないので、英語のレポートを読んだり、授業で使うケース研究の材料となりそうな新聞記事を(電子的に)切り抜いたりしている。でも、もっと有効な時間の使い方があるのではないか、ともやもやする。
30年近く前に会社で受けた「七つの習慣」の研修を思い出す。限られた時間内により多くの仕事をするためには、まず大きな仕事(の塊)を配置し、その隙間に細かい仕事を入れていけばよい、というものだった。大きなガラスの鉢に大きな石と砂を入れて説明してもらった。私がもやもやしているのは、その通りに大きな塊を配置して、その隙間に細かな仕事を入れているのにまだ隙間が残っているからなのだろうか。であれば、解決策は、もっと砂を持ってくるか、今ある大きな石を砕いて砂を作り、代わりに別の石(新しい仕事)を持ってくるしかないのか。
こう考えているうちに気づいた。私はなぜ「暇」を恐れるのだろう。世の中の人も「忙しい、忙しい」と言っていても隙間の時間は持っている。それをうまく使ってリラックスしている人もいるのではないか。隙間の時間は隙間として置いておいてもいいのではないか。
ゴールデンウィークはカレンダー通りの出勤をしている。そのうち土曜日は出勤、とあと3日分は自治会の仕事があり、残りは2日のみになった。そこに予定が入るとほっとしている自分がいる。このサラリーマン根性を抜かないと、人生100年時代は生き延びられないかもしれない。「暇」でいいじゃないかと堂々と言えるようにならなければならないのか。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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忙しいのに暇とは
2018.05.06