将棋の最年少プロの藤井聡太六段が、対局数、勝数、勝率、連勝の記録を独占したとのニュースが新聞の一面を飾った。まだ15歳である。この人の頭の中は一体どうなっているのか、これからどこまで伸びるのか、と驚きつつ期待が膨らむ。
人間の知的能力は十代から二十代にかけてピークに達するのではないか。大学時代には、同級生の中に「この人の頭の中一体どうなっているのか」と思うような人が結構いた。数学の分野のノーベル賞であるフィールズ賞の受賞条件が40歳以下というのも頷ける気がする。凡人の自分を振り返ってもそう思う。20歳前後に勉強していた数学の本に自ら書き込んだ訳の分からない数式を見る限り、今の私には考えられない知的能力があったのかも・・・と感心してしまう。
現在の私はどうかと言うと、ビジネス書を読んでいて数式らしきものが出て来ると、もう深く考える意欲が失せているのか「やめてよ。要するに何なのか結論だけ教えて」と逃げ出してしまう。その代わり、物事の全体像を捉えたり、他の事象との本質的な共通点を見出したり、といった力は当時より付いていると思う。だから、数学の問題を解く能力は衰えても、生きていく上での問題解決能力は高まっていると言える。人間の知的能力は形を変えて伸び続ける。そう信じたい。
さて、勝負の世界や受験などと違って、社会に出てからは評価結果が数字で出ない分、自分への評価に対する納得感が薄れる。いつも私は、まず「よく頑張ったな、自分を褒めてあげたいよ」と思い、次に「それにしても自分のしたことは評価されていないな」と思う。多分多くの人が常日頃からこう思っているのではないか。それから先は個々に違ってくる。
例えば私の父は、その矛先を外に向ける人だった。自分が認められない理由を、「親が上の学校に行かせてくれなかったから」「上司が成果を独り占めしたから」「年齢で差別されたから」などとよく言っていた。だから周りとのトラブルも多かった。しかしそれと戦うことが自分の努力の源になっているようだった。いわゆるハングリー精神である。
一方私は、矛先を自分に向ける。自分のしたことが周囲から高い評価を受けられなかったときの要因は次の3つのどれかであると考える。@頑張りが足りなかった、Aやり方(プロセス)が正しくなかった、B私のすべきこと(目標)が違っていた、である。マラソンのレースに出ていて先頭集団からかなり離されたところにいるときに、「もっとスピードを上げるべきだ(@)」「走り方が間違っているのかもしれない(A)」「そもそもこのレースではなく別のレースに出ればよかった(B)」と考えるようなものである。だから今でも、新しい目標を見つけ、新しいやり方を探し、できるだけの努力をしようと思う。私にも働いていく上で女性ゆえの差別、パワハラやセクハラは数限りなくあった。でも矛先を外部に向けて戦わず、自分に向けてもがく方を選んだのは性格によるものなのだろう。そのお蔭で、100歳までもがき続けることになるはずだ。常に準備段階であり、旅の途中であり、終わった気は全然しない。もしかしたら大化けするかも知れない、と信じつつ。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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矛先は他人か自分か
2018.03.18