この2,3年、NHKのいわゆる朝ドラを観るようになった。明治から大正、昭和にかけての世相が良く分かって面白いのだが、一つ気になることがある。主人公やその周辺の人たちの子供が少なすぎはしないだろうか。子供たち自身が主人公であるのを除けば、1人かせいぜい2人である。2年前に97歳で亡くなった私の父のきょうだいは10人以上である。これは珍しくはないと思う。ただ、父のきょうだいが全員長生きしているのは珍しいケースかもしれない。多くの子供たちが幼くして亡くなっているのも事実だからである。
ドラマの中の子供の数が少ないのも理解はできる。確かに、沢山子供がいて、その各々についてエピソードを語っていたらドラマ全体のテーマが何かが分からなくなるし、放送が半年では終わらないだろうし、子役を沢山集めなければならないのでコストもかかるだろう。結構重要な役どころの主人公の兄でさえナレ死(死んだというナレーションだけ流れてあとは遺影だけ映る)するくらいなのだから、幼くして死んだ子供について取り上げていたら大変なことになる。ストーリーを明確にするためにも仕方がないと言わざるをえない。
話は変わる。もう50年近く前になるが、当時20歳くらいの私は、母方の祖父(当時80歳近く)と二人暮らしをしていた。祖母はその数年前に亡くなっていた。実は、私の母は一人娘である。父は母のところに養子に来たのである。ある時、祖父の古い友人が数十年ぶりに訪ねてきた。最後に会ったのが昭和の初めの頃ではないかと、話を横で聞きながら私は推測した。その時点で戦後20数年が経っていた。
祖父の友人が言った。
「では、男のお子さんはできなかったんですね。それは残念でした。」
すると、祖父は次のように答えた。
「いや、却って良かったんですよ。男が生まれても戦死していただろうし。」
この祖父の言葉は若かった私の心にもずしんと響いた。もしも体が弱かった祖母が生んだたった一人の子供が男の子だったら、そのときは皆が祝ってくれたかもしれない。しかし、戦争になれば当然出征し、戦死した可能性はかなり高い。子供を戦地に送り出す苦しみ、別れる悲しみ、それらは想像するに難くない。しかし、女の子であったために戦争に行かずにすみ、結婚して子供ができ、血はつながったのである。祖父の言葉は、諦めでも負け惜しみでもなく、本心から出たものではないか、と私は思った。
現代は、幸いなことに乳幼児が亡くなる可能性はかなり低くなっている。だから、子供が生まれれば、親は、死ぬまでその子とともにあると考えるのは当然だろう。しかし、別れる理由は死だけではない。交通が発達して世界中どこでも行けるようになっても、通信が発達して一瞬でメッセージを届けることができても、疎遠になることはある。死別の可能性が減れば減るほど、別れの重みが増してくる。現代人の心の中に「別れがあるのなら、いない方が却って良い」という気持ちが芽生えてもおかしくはないような気がする。少子化の根底にこのような意識があるのではないか、と思うのは行き過ぎだろうか。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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少子化を止められないひとつの理由
2018.02.04