トップページ > コラム

目に見えない成果はどこかに存在する


2017.12.10


イメージ写真

 かつて勤めていた会社の関係者から突然メールが入った。社内で40年以上前の製品の開発の歴史を展示するとのことである。それには私自身も関係していた。関係者の名前を入れたいので、私の役割をどう書いたらいいだろうかとの問い合わせだった。さてどう答えたらいいものだろうか、と一瞬迷った。なぜなら、やっていた作業自体はうっすら覚えているが、役割は何だったか、と改めて問われると、現在残っている記憶からは答が出て来ないのである。上司と一緒に仕事をしていたのであるから、上司には(当時なら)私に出した指示の内容から私が果たすべき役割は見えていたはずである。しかし、私がそれを認識していたかどうかは疑問である。少なくとも私は指示通りにモノづくりをするだけ、というつもりはなかったと思う。でも、それを超えて私が何かをしたか、というと何も思い出せない。結局、上司がソフトウエアシステムの設計をし、私が製造(つまりプログラミング)した、ということにしてもらった。他の表現が見当たらなかったからである。

 要するに、私自身のしたことの成果が目に見えていないことが問題なのだろう。当時は、自分自身が上司から指示されたこと以上のことをしていたと思っていた。しかし、上司からそれを褒められたこともないし、上司が書いた学会論文に名前を入れてもらったこともない。40年以上経った現在には何一つ成果物が残っていないのである。あるのはぼんやりとした「よくがんばったな」という記憶だけである。40年以上前のそのプロジェクトで私が成果に貢献する何もしていなかったとかつての上司から言われたとしても、否定する気はない。成果物として残っていないものはしなかったも同然だからである。「がんばった」とか「大変だった」などの思い出は個人的なもので、プロジェクトの成果には何ら関係がない。しかし、個人的には、成果とは別の大きなものを自分自身に残してくれた。つまり、あのプロジェクトがあってこその現在の自分だと言えるのである。それは決して目に見えない。表現のしようもないものである。

 45年以上働いてきて来年は70歳になる私であるから、少しは自分で誇れる成果物を持っている。でも、自慢するほどのものでもない。だから、「あの頃は良かった」とは決して言わない。いつも、誇れる成果物はこれから作るのだと思っている。これまでやってきたことは全てそのための準備なのだ。「大変だった」「がんばった」ことは筋トレにすぎない。でも、十分な筋トレをしておくことで、将来素晴らしい成果物ができるだろう。それでよいではないか。筋トレこそが目に見えない成果なのである。

 自分ではプロジェクトに貢献した、良い成果に結びつけることができたと思っても、上司から評価されず悔しい思いをしたことはよくあった。人にもよるかもしれないが、これもまた目に見えない筋トレになるのだ。「認められたい」という思いが「その内見返してやろう」という思いに変わっていく。それは、将来に向けてのモチベーションになる。結局誇れる成果を上げられないままで終わるかもしれないが、それでも誰かに影響を与えていると信じたい。目に見えない成果はどこかに存在するのだ。



コラム一覧へ