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記憶の儚さ


2017.10.15


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 今年のノーベル文学賞がカズオ・イシグロに授与されるというニュースを見たとき、やはり取るべき人が取ったな、と思った。実を言うと他の作家の名前を殆ど知らないので、自分の勘が当たったというほどのものではない。でも近々取るのではないかと密かに期待はしていた。

 カズオ・イシグロとの出会いは2010年に公開された映画「わたしを離さないで」のTIMEでの紹介記事だった。その後、カンボジアに旅行した際に航空機内でその映画を観て、セリフが全然聞き取れなかったことにショックを受け、日本語訳の文庫本を買って読んだのが最初である。続いて、「遠い山なみの光」「浮世の画家」「日の名残り」「充たされざる者」「わたしたちが孤児だったころ」と次々と買って読んだ(はずだった)。さらに、夜想曲集を原書で買ったが、5分の1まで読んでそのままになっている。最近作の「忘れられた巨人」は買っていないが、文庫本が出たら買おうと思っている。読んだ本は本棚に並べて置いてあり、時々取り出して読んだりしている。

 ノーベル賞受賞のニュースの中では、私が挙げた本の題名が示されていた。いずれも、その物語の舞台となった(ある意味架空の)地域の雰囲気、その中に迷い込んだ不安まで思い起こされて、改めて作品の奥の深さに気づいた。しかし、1冊だけ、どうしても舞台も内容も思い出せない作品があった。「浮世の画家」である。すぐに書棚に向かった。確かに他の作品と同じ棚にある。しかし、カバーに書いてあるあらすじを読んでも全く記憶がない。すぐにバッグに入れて、移動中の電車の中で読んだ。どうみても最初の部分から初めて読む小説としか思えない。買ったのが5年くらい前としても、既に私は60代半ばになっていて、今の私と同様に主人公に共感する部分も多いはずである。しかも舞台は日本である。やはり、買ったものの読まないうちに他の本と一緒に書店のカバーを外して本棚に並べたのだろう。そう思うほかはなかった。

 物語の最後に近づいたとき、ある行に衝撃を受けた。それは、主人公の孫が将来何になりたいかと聞かれたときの答である。「○○電機のしゃちょうになる」。確かにこの部分は見たことがある。どうしてここだけ覚えているのだろうか。書店で手に取った時にたまたまこのページを開いて目にしただけなのだろうか。その前後を思い出したわけではないので、ただ謎が深まっただけである。

 真実は一つと言うけれど、読んだが内容を忘れたことと、読んでないことは結果として同じである。読んだか読まなかったかを過去の日記をひっくり返して確認したところで何も変わりはしない。人間の記憶などかなり曖昧である。政治家や官僚が「記憶にない」と言うことはかなり非難されるが、「記憶にある」と言ったとしてもそれが真実かどうかは確かではない。人の記憶から真実を掴もうとすることは無理である。真実を知るためには物的証拠を掴むしかないのだ。

 さて、「夜想曲」を英語で読むことに再度チャレンジしようか。それすら忘れそうだが。



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