私の経験を他の人にあげたり貸したりすることはできない。経験は、「誰々が」という主体と、学ぶ、食べる、着るなど動詞で表現される。つまり、やってみなければ経験にならないし、その結果は、やった人ごとに違う。さらに、「無駄な経験はない」と言われるように経験した結果のみが価値として認められるわけではない。経験することによって主体自身が変化するのである。
経験するために利用するもの、例えば学ぶための教科書、食べるための食糧、着るための洋服などは、譲ったり、減るものでなければ貸したりできる。また、経験した結果であってもその価値が、何かをするのに必要な権利や資格などのように明確であれば、譲ったり貸したりすることができることもある。譲ったり貸したりできないのは途中のプロセスである。そして、プロセス自体は、それをしている主体の人独自のものであって、二つと同じものがない。教科書が同じで同じ教師が教えても試験の結果は学生毎に違ってくるし、同じ洋服を着ても似合う人と似合わない人が出る。少なくとも人間世界ではそうである。
経験するプロセス自体が明確なルールで定義されていたらどうだろうか。そのプロセスを実施する主体の処理能力が同じで、間違いなくルール通りプロセスを実施できるのであれば、結果は同じであるはずである。しかし、現実の世界では、たとえプロセスが明確に定義できたとしても、主体の処理能力がバラバラなので結果も当然ながら変わる。どうしても二つと同じ経験は無い、と言わざるを得ない。
では、「無駄な経験はない」というときの経験とは何を指すのだろうか。これはプロセスが主体に与える副作用ととらえられないだろうか。経験した結果が良いものであっても良くないものであっても、必ず副作用はある。結果が良くなかった経験から生み出される副作用の方が良い結果の時の経験から生み出されるものよりも価値が高いことが多い。つらい経験から他者への思いやりを学んだり、失敗に学んで次はよりよい選択をしたり、といったものは人間にとって重要な財産となる。さらに言えば、経験のもたらす価値は、その結果から得られるものよりも副作用から得られるものの方が大きいことも多い。
人工知能に人間と同じ入力を与えて人間と同じプロセスで処理するよう指示した場合、将来は人工知能の方がよい結果を出せる可能性は高い。子供が親を超えるように、弟子が師匠を超えるように、結果の面だけ見れば処理能力が高い人工知能が人間を超えることはあり得る。それでは、副作用の部分はどうだろうか。現代の人間は副作用に対して「無駄な経験はない」程度の認識しかできないので、人工知能が多くの経験を積んだ結果どのような副作用が出るのか予測もつかない。ひょっとしたら、人間独自のものと考えられてきた感情(同情や共感など)、ややる気(モチベーション)などが生まれるかもしれない。そうすれば、人間ならではの特徴というものが失われてしまう可能性がある。一方で、人間とは全く違った副作用が生まれる可能性もある。それがどのようなものか想像するのが怖い。
いずれにしても人工知能は独自の経験を積んで独自の進化をするのではないか
自分の信念に従って行動する「高い志を持つ、市場価値の高い技術者」を育成します。
「市場価値の高い技術者の育成」を目指して、
コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
トップページ > コラム
人工知能が経験を積んだらどうなるだろうか
2017.09.24