「無駄な経験は無い」とよく言われるが、私自身もこれを固く信じている。事実、子育ての経験は仕事のキャリアに間接的ではあっても役立っている。例えば、時間の使い方、部下や同僚との接し方、物事の優先順位の付け方、などなど、子育てから得たものは多い。旅行の思い出は、ふとした時に蘇って心を和ませる。長距離通勤でさえ(体を壊しては元も子もないが)頭と体の鍛錬になる。失敗した経験が役立つことは昔から広く言われており、失敗から学ぶことに関する書籍も多く出ている。
一方で、無駄なモノは沢山ある。まだ1回しか着ていない家紋の入った留袖や喪服。子供に譲るしかないが、却って迷惑がられるだろう。まだ一度も着たこのない服、一度も履いたことのない靴もある。形が古くなり、サイズも合わなくなっているのにもったいなくて捨てられない。通常の商品の場合は時間とともに価値が下がる一方である。買うより借りた方がよい。シェアリング・エコノミーは今後も発展することだろう。
ところで、何故、モノに関しては簡単に無駄だと言えるのだろうか。そういう時の心理を考えてみると「これを買ったお金を別のことに使えば、もっと良いものが買えたのではないか、もっと価値あることができたのではないか」との思いがあるからではないか。無駄なモノは無駄なお金の使い方に直結しているのである。
それでは、無駄な経験は無いと何故言えるのだろうか。経験するにも時間とお金が要る。「この時間とお金を別のことに使えばもっと良い経験ができたのではないか、もっと価値を生めたのではないか」となぜ考えないのだろうか。そこで気づくのは、経験は形がないだけに価値が想像しづらいということである。資格を取るなど目に見える価値はあるのではないか、とも考えられるが、その価値を(お金に換算するなどして)測ることは難しい。実際は資格がすぐに価値に結びつかないケースも多い。私自身、技術士の資格を取ったのは33歳のときだが、資格として役に立ったのは65歳で会社を定年退職した後である。むしろ、資格を取るための努力が仕事をしていく上でじわじわと役に立っていたと思う。でもそれは定量的に測れるものではない。だから、いつまでたっても評価できない。
無駄かそうでないかは、価値が分かる(あるいは分かった気がする)ときに判断できる。買う前に想像していた価値が間違いで実際は低かったと判明したとき、無駄なモノを買ってしまったと気づく。一方で、経験の方は価値がいつまでたっても良く分からないので評価のしようがない。さらに、経験は古くなると価値が高まる傾向もある。
モノは他人に貸したり売ったり譲ったりできるし、捨てることもできる。経験はそれらのいずれもできない。完全に個人のものであり、最後まで自分で責任を持たねばならない。場所を取る訳ではないので持ち続けることになるが、それがいつか価値を生む。
現在はモノがあふれかえり、大量生産しても売れない時代である。つまりかつてのモノづくりでは大きな価値が生み出せない。心に残る体験をさせる、見えない価値を提供する「経験を売る」ビジネスが求められる訳である。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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無駄な経験は無いが無駄なモノはある
2017.09.10