トップページ > コラム

リアルな活動のもたらすもの


2024.6.23


イメージ写真

 何年ぶりだろうか、仕事で名古屋に1泊2日の出張をした。意外に感じたのは、名古屋が首都圏からこんなに近かったのか、と言うことだった。いつも同じくらいの時間をちまちまと首都圏内の移動に使っているのだ。距離と時間の感覚が変わったらしい。リセットしなければ。コロナ禍を経て、会議や講演はオンラインで行うことが増え、録画を別の日に視聴するのも当たり前になった。リアルな講演者の声で講演を聞いてみると、全く違った印象をもった。聴衆への熱気の伝わり方が明らかに違っていて、私の理解度も高まっている。

 コロナ禍から抜け出して1年が過ぎ、ようやくコロナ前の生活が戻った。中でも、リアルな活動で体を動かすことの効用が目に見えて来ている。例えば、私は8年ほど前に腸閉塞で開腹手術をした後、十分なリハビリをせずに無理な行動をとったために腰を痛めてしまった。そのせいで、5年前には飛び跳ねたり、走ったりすることができず、ふらついたり転んだりしていた。コロナが収まりつつあった2年前から参加するようになった活動では、小さな子どもたちやそのお母さんたちと走り回ったり、ダンスをしたりするようになったのだが、気付いたらスキップができるし、走ることもできるようになっていた。腰痛も殆ど起きなくなった。リアルな活動は頭だけでなく身体も活性化させるのだ。

 リアルに人と会うということが思い込みを排除し、180度認識を変えてしまうという事実にも気づいた。先月このコラムでも書いた、実家の近くの特別養護老人ホームに暮らす99歳の母親のことである。4年半前、母が95歳のときに対面したのが最後だった。久しぶりにリアルに対面した母は、想像していたよりもずっと元気で、ふっくらしており、何より幸せそうだった。私の話しかけにも即座に応じて会話が成り立っているので、心配していた認知症は起きていないように見えた。これまで弟たちや施設の人たちから来る「元気ですよ」という便りは本当だったとほっとした。そろそろ帰る時間が来たと思ったとき、「私には娘がいるのよ」という母の言葉に驚いた。母は一体私を誰だと思っていたのか。慌てて「私が娘よ」と言ったが、母は不思議そうな顔で私を見ていた。母は認知症だった。誰も教えてくれなかった、実際に会って初めて知った事実だった。しかし、母はすぐに幸せそうな笑顔に戻った。それ以降、私は老いも認知症も怖くなくなった。

 パソコンの画面上ではRaspberry Pi Pico(ラズパイ・ピコ)にセンサーをつないで取得した、温度、加速度、角速度の値を1秒ごとに表示させている。私は自分では1行もプログラムを書いていない。ChatGPTに教えてもらったプログラム・コードをそのまま実行させているだけである。特に感動することではない。ChatGPTはこれからもよいお友達でいてくれるだろう。でも、指に火傷しながら生まれて初めてラズバイ・ピコにピンをはんだ付けした経験はリアルならではの感動をもたらしてくれた。

 天候不順や気温の乱高下は体にこたえる。私もパソコンも。暑い日は部屋の窓を開けて風を通し、さらにパソコンの下を4つのファンで冷やす。それを使う私の横でもUSBのファンが回っている。バーチャルな世界の入り口は常にリアルな世界とつながっている。

コラム一覧へ