5月晴れのある平日、まもなく100歳を迎える母を訪ねた。母は、実家のある地域の特別養護老人ホームに入っている。最後に母を訪ねたのは4年半前のことである。それまでは、娘の一家と一緒に車で会いに行っていた。コロナ禍を経てようやく通常の面会ができるようになったのだが、人数に制約もあるので、電車とバスを乗り継いで一人でいくことにした。
新型コロナの影響がかなり治まって通常の生活になってから1年経つのに、なぜこれまで母を訪ねることができなかったのだろうか。できない理由はいくつでも思いつくことが出来る。でも、それらは回避できないことでもなかった。本当の理由は、怖かったからなのだ。かつてと全く違った母親になっているのを知ることが。私を娘と認識してくれないのではないか。私と瓜二つと言われている母の老いた姿から、自分の将来の姿を突き付けられてしまうのではないか。それで、色々と行けない理由を絞り出していたのだ。
4年半ぶりに会った母は、驚くほど元気そうで笑顔を見せていた。最初、私は母が私を認識していると思った。しかし、会話は成り立っているように見えるのだが、決して通じ合ってはいない。それでも、分かっていると信じて様々な話題を出していた。そして面会時間の終わりが近づいた頃、ふと母が言った。「〇〇市に娘がいるのよ」。それで、私を娘と認識していないことに気づいた。そこで、「私がその娘のアツコよ」とマスクを外して顔を見せた。母は、「アツコ?」とつぶやいたが、腑に落ちない表情だった。面会時間はそこで終了した。母はまたニコニコして平和な顔に戻った。
母は、確実に認知症になっている。母の記憶の中には娘が存在しているのは確かだが、それは多分若い女性だろう。それが見ず知らずのお婆さんが現れて「あなたの娘だ」と言ったら、不思議に思うに決まっている。でも、感じた違和感はすぐに忘れたはずだ。いや、まもなく誰かが訪ねてきたことも忘れたに違いない。それで良いではないか。あの平和そうな笑顔、ご飯が美味しいと嬉しそうに言ったことは本当だ。娘と認識してもらおうと迫ることはストレスを生むことになりかねないので止めたい。どこかのお婆さんで十分だ。
その後、私の老いに対する考えが大きく変わった。老いることは決して怖いことではない。100歳が近づけば認知症になるのは避けられないかもしれない。それでも良いではないか。あの平和な笑顔を見ればそう思う。あったことをすぐ忘れるというのも悪いことではない。食事が良くとれていることは顔と体つきからもよくわかる。ひょっとしたら(やせこけた)私の方が老けて見えるかもしれない。
現在の私は、多くのことに興味を持ち、色々なことにチャレンジしている。若い人たちのコミュニティに参加して、多くの刺激を受けている。それが結果的に認知症になるのを遅らせることになると信じている。また、徹底した塩分と糖分の抑制、毎日のウォーキングで健康を保とうとしている。でも、90歳を過ぎたら好きなものを食べたい。塩辛も大福も。
また母を訪ねて来よう。娘と認識してもらえなくともよい。どこかのお婆さんが来て話し相手になるだけで笑顔になれるのなら、それだけでよいではないか。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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高齢者の認知症は不幸ではない
2024.5.19