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気の遠くなりそうな言語習得


2024.1.28


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 今年(2024年)に入って、突然、アラビア語とタイ語を習得しようと思い立った。せめて旅行に行ったときに簡単な会話ができればよい。しかし、これらの言語の文字は私にとっては模様にしか見えない。しかも、近くに学校もないし先生もいない。つまり、本から学ぶことも誰かに教えてもらうこともできない。耳からしか学べないのだ。本当にそれができるのか。これは私自身の壮大な実験だ。

 アラビア語については、1時間半ほどのストーリー音源がある。タイ語については、合計4時間近くになる、シチュエーションが全く異なる3本のストーリー音源がある。ストーリーの大まかな内容は分かっている。まもなく、アラビア語に対してタイ語の方の理解度が進んできたことに気づいた。耳から入る音の量の違いもあるのだが、異なるシチュエーションで、異なる声で発せられる音声の違い、つまり情報の質の違いによるものもあるのだろう。

 ここからは、タイ語を例にして私自身が発見したことを示してみたい。音声については聞こえたままをカタカナで表現する。タイ語の分かる人にとっては間違いだと思うかもしれない。でも、あくまでも私にはそう聞こえているということで目をつぶって欲しい。

 挨拶の最後に“インディー・トゥーラ・ルチャ”と聞こえてきた。別の場面で、「喜んで」と言うのに“インディー”と言っている。また別の場面で、「〇〇に出会う」と言うのに“ルチャ〇〇”と聞こえた。ここまでで、挨拶の最後に「会えて嬉しい」と言っているのだと気付いた。 “アライ”という言葉には悩んだ。「何?」と質問するとき、“ク・アライ”と言っている。しかし、別の場面では「美味しい」も“アライ”と聞こえる。一方、「何でもない、何でもない」と否定するのに“ミアライ・ミアライ”と言っている。一体何なのだ。何度も音源を聞いてみたら、「美味しい」の方の“アライ”の“ラ”は巻き舌の声のように転がっていた。やはり両者は違ったのか。これらのことに気づくのに3週間も費やしている。

 勿論、発見が面白いと感じることの方が多い。「ピアノが弾ける?」は“レン・ペノ・ルプラウ”、「柔道ができる?」が“レン・ユードー・ルプラウ”であると知ったとき、“レン”と“ルプラウ”の意味が何となく分かった。さらに、“ルプラウ”が挨拶の場面や丁寧に質問するときにも多く使われていることを知り、「問題ない?」や「大丈夫?」と言うニュアンスではないかとも思えてきた。本当に、気の遠くなるような言語習得である。

 なぜこんな面倒なことをしているのか。理由の一つは、習得に期限がなく、自分には時間があるからである。もう一つの理由は、赤ちゃんがどうやって言葉を習得するのかを身をもって体験したいからである。これまでの学びは、他人から教えられることと、書物やインターネットからの文字を通したものばかりだった。赤ちゃんに返って五感からの学びを進めることも面白いではないか。

 本当は宇宙旅行がしてみたい。20年後には手が届くかもしれない。でも、“チャン・ニャンニュー・ジェシパー・ピー”(私は75歳です)なのだから無理かもしれない。ただし、赤ちゃんは20年後には20歳というわけで、五感は鍛えておくに越したことは無い。

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