最近の私は、ちょっと難しい本であれば3回は読み返さなければ理解できない。記憶力も理解力も最大だった20歳の頃の自分に戻れたらと思いきや、何度も読む手間を楽しんでいる自分がいる。なぜなら、読書の楽しさは分からなかったことが分かる発見の楽しさであり、それが1冊の本で3回も経験できるのだから。
1冊の本を続けて何度も読むわけではない。関連する別の本を読んでから再度読み返すことが多い。当然ながら最初よりも理解度は増す。また、(すぐ忘れるので)罫線のないノートを手元において図式化したメモを取っている。お陰で、全く別のジャンルの本で関連している内容があったとメモを見て気付くことも多い。新たな紐づけができたと実感したときの喜びはさらに大きい。たとえそれが単なる仮説(あるいは妄想)に過ぎなかったとしても。
前回のコラム(有でも無でもないもの)で書いたように、龍樹の「空」についての理解を深めようと別の本を探して読んだ。ブッダ龍樹の両方から「空」について論じている本「『空』の発見」(石飛道子著 2014)である。その中で、ブッダがあらゆる言葉を「空」とみる、という表現を見つけた。その理由が、言葉は絶えず意味を変えていき違った意味をもつから、であると知ったとき、どこかでこのような表現を見たことがあるのに気づいた。早速過去にメモしたノートを読み返した。見つけたのは2つの内容である。いずれも、人間が言葉を獲得した源泉を探っていたときに読んだ哲学の本からである。
一つ目はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」である。そこでは「語の意味は言語におけるそれの使用で決まり、語と対象は一対一で対応していない」とされる。二つ目はマルクス・ガブリエルの「意味の場」である。ガブリエルの「世界は存在しない」では、存在しているのは無数の「意味の場」であり、何らかの意味の場に現れることが存在することになるとする。いずれも、ブッダが示し、龍樹が理論化した「空」と共通しているのではないか、と私自身は勝手に三者を結び付けてしまった。明らかに私の妄想にすぎないのだが。
そもそも私が龍樹の「空」に興味を持ったのは、量子力学の哲学的な捉え方の一つとして教えられたからである。それが、インドにおけるブッダに始まり、2,3世紀の龍樹、さらに20世紀のウィトゲンシュタイン(オーストリア)、さらに21世紀のガブリエル(ドイツ)へと、言葉に対する考え方を通じてつながったのは、この2年間に様々な本を読みまくったからである。ただし、何度も読まなければ理解できないので冊数は少ないが。
「言語」についてはさらに新たな気づきがあった。私は、人間という種が言語を持った理由を「人間は自分の命を守るため他者と協力する必要があるからである」と考えている。とすれば、言葉を巧みに操る生成AIは命を持たないので言語も持ちえないはずだ。単に人間を真似しているだけである。しかし人間にとって大きな転換点に来ているのは事実ではないか。現段階では、知らないことでも知っているかの如く、嘘でも本当のことのように巧みに話をしてくれる状態だが、果たして今後はどうなるだろうか。言葉が「空」であればそこにどのような形で入り込んでくるか分からない。空恐ろしいことではないか。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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言葉は「空」である
2023.6.4