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天才は育つものではなく生まれるものである


2017.05.21


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 2017年のゴールデンウイークは、中学生のプロ棋士、藤井聡太さんの話題で持ちきりだった。将棋に限らず天才の代名詞にもなりそうである。子供を持つ親たちは「どのように育ったのだろう」と気になることだろう。彼が幼い頃に遊んでいたかなり高額な玩具が品切れ状態だということである。同じ玩具で遊ばせたい、と思うのも当然かもしれない。

 しかし、当たり前の話だが、天才が夢中で遊んだ玩具で遊ばせれば天才になるわけではない。そもそも、天才だから夢中で遊んだのであり、夢中で遊んだから天才になったわけではない。天才は育つのではなく、生まれるのだ。

 普通の人間の延長線上にあるのは天才ではなく、秀才、つまり努力した結果普通の人より優秀な成果を上げられるようになった人である。天才は大多数の普通の人間の延長線上にはなく、別の世界に存在すると思った方がよい。

 数学を専攻していた大学時代、私から見れば天才としか思えない級友が何人かいた。その人たちの思考回路、記憶機能の構造は自分とは全く違うとしか思えなかった。その人たちが私の考える天才の世界でどのレベルにいるのかは分からなかったが、自分の世界の人でないことだけは分かった。その人たちに対しては、対抗意識を持つどころか羨ましいとすら思わなかった。何しろ別世界の人達なのだから、比べる対象にはならない。

 そういえばこんなことがあった。当時まだ10代だった美空ひばりさんがファンに塩酸をかけられた事件が大きな話題になった。当時の新聞や雑誌の記事の中には、犯人の少女は、自分の境遇とひばりさんの境遇のあまりの違いにくやしさを感じて犯行に及んだのではないか、というものがあった。その時小学生だった私は、父に「若くてあんなにお金を稼いでいる美空ひばりが憎いとか悔しいとか思うことある?」と聞いてみた。父は人一倍競争心が強く、子供の頃に周囲から受けた悔しい思いをばねにして(97歳で亡くなるまで)戦い続けた人だったが、一言、「全然無いね。だって別世界の話だもの。」と答えた。60年も前のことだがはっきり覚えている。別世界の人と自分を比較したり、羨んだりするべきではないのだ、と学んだ一瞬だった。

 天才の世界(そういうものがあるとして)にいる人たちに対して普通の世界にいる私たちは卑屈になる必要などない。私たちはこの世界で自分の良さを見つけ出し、努力してそれを伸ばし、上を目指せばよい。自分の良さは人それぞれ違うので、目指すところも違ってよいのである。

 普通の人間である私たちがしなければならないことがある。それは、天才に生まれた人たちを妨げることなく伸ばしてあげることである。これから人工知能が人間を超えるかもしれない時代に入る。天才がその力を存分に発揮できる環境を作ることで、人間全体の存在意義も保持できるだろう。普通の人間は、人工知能の力を借りて弱いところを強化しつつ、自分の目指すところに向かって努力を重ねればよい。



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