もう4年ほど毎日2時間強のウォーキングをしているが、どっきりする光景によく出会う。それは、車の行き交う広い道路の横断歩道ではない所で人が渡る光景を目にすることである。横断禁止のための柵が設けられていても、平気で乗り越えていく。さらには、車が止まってくれることを想定してか悠然とカートを押して渡る高齢者も見受けられる。心配性の私にはとても考えられない行為である。私は命が惜しいので、たとえ横断歩道が100m先にあってもそこまで歩いて行き、同じ距離を戻る。
時々、自分は敏感過ぎるのかもしれないと思う。命を惜しむだけではなく、失敗を恐れる気持ちも人一倍強く、最悪の事態を考えては慎重に行動しすぎて疲れてしまう。それでも様々な場面でトラブルが発生することがあり、落ち込んでしまう。もっと鈍感になれば楽に生きられるのではないだろうか、と考えることもある。しかし、鈍感であることが大きな弊害を生むことは事実なのである。交通事故の原因を作る以外でも。
いずれの組織においても、人は上位者になるにつれて他の人の事情を理解しづらくなる。だから他人の苦しみにも気づかない。さらに、自分の行為を正当化しがちになる。まさに鈍感な状態である。これは国の指導者にもみられる傾向である。逆に言えば、鈍感でなければ指導者の地位にはいられないのだろう。心配性で悩んでばかりのトップは考えられない。しかし、敏感で心配性というのは本当に悪いことなのだろうか。それは違う。上に立つものほど様々なことに敏感であり、自分の決定が正しいかどうか心配するべきなのだ。トラブルがあれば大いに反省し、悩み、再発防止のために対策を講じるべきなのだ。
死を恐れ、最悪の事態ばかり想定し、トラブルに悩む私のような心配性の人間でも、実は毎日元気に生きていけている。理由は簡単である。忘れっぽいからである。一晩寝ると「何か昨日うじうじ悩んでいたようなことがあったな、何だったっけ」と忘れている。高齢者の鈍感力をうまく使っているのだ。それでも、同様な状況に陥れば思い出す。それによって同じトラブルを回避できている。敏感さと鈍感さを組み合わせることこそ重要なのだ。
もうひとつ、自分の性格として「他人に依存したくない」というものがある。誰かに依存するとそれに縛られて不自由になる。自分ひとりで考えて行動することで自由が得られると思っているのだ。一方で、この性格には危険が伴う。偏り、思い込みが正しい判断をできなくさせる可能性があるからである。特に、現代の複雑な社会環境においては、何が正しく何が間違っているか簡単には判断できないことが多い。多くの人の意見を聞き、柔軟に取り入れて判断する必要がある。高齢者は特に家族の意見を聞くことが危機管理につながる。
他人の意見を聞くことを「他人に依存しない」と両立させることは可能である。最終的な判断は自分で行い、責任を自分で取る、という立場を取ればよいのである。他人に依存すれば楽なことは確かである。面倒なことは考えなくてよいし、嫌なことから逃げることも可能かもしれない。しかし、正しい判断ができる能力を身に付けた自立した人間になることで、本当の意味の自由が得られる。これは何物にも代えがたいと思っている。
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コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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相反する性格を両立させる
2022.10.23