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ウィトゲンシュタインとチョムスキー


2022.09.11


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 ウィトゲンシュタイン(1889−1951)はオーストリア生まれの著名な哲学者である。哲学とは全く無縁な生活を送ってきた私がその名を知ったのは全くの偶然である。数年前、友人が「持っていた本を間違ってまた買ってしまったのであげるよ」と分厚い本を譲ってくれたのだ。しかし、最初の部分から何を言っているのか全く分からず、そのままにしていた。時間ができた3年ほど前「ウィトゲンシュタインはこう考えた」(鬼界彰夫著 講談社現代新書)を購入して読んでみたが、こちらも理解できなかった。

 ウィトゲンシュタインの本を再び手にしたのは、言語学者ノーム・チョムスキーの提唱する「普遍文法」は存在するのか、人間は生まれつき「言語獲得能力」があるのかについて考え続けていたこの夏である。「言語」についての記述が多いことに気づき、どのように捉えていたのか興味を持ったのである。そして、前回の本コラム(2022/9/4)で書いたように「人間の言葉は考えうるすべてのことが思考できる極大言語である」との記述を見て、「普遍文法」も同じような考え方から来る哲学的な問題かもしれない、それなら私の手におえないと考えた。しかし、ウィトゲンシュタインの言語に対する考察は大きく変遷して後期には全く違ったものになっていったことを知り、ここで終わりにしてはまずいと考えなおした。

 ウィトゲンシュタインの後期の思想の中心は、「言語ゲーム」と「規則に従う」である。私なりの解釈だが、「言語ゲーム」は、文の意味はそれを述べている内容を示すのではなく、我々が全生活の中で演じている役割である、と言う考え方である。話している生活の場面によって言葉の意味は違ってくる。「規則に従う」は、人間は全生活の中で規則に従うという行為を繰り返していき、誰がやっても同じ結果になるものが規則として固まっていく、というものである。あらかじめ規則があって人間はその規則に従うということではない。これらは、チョムスキーの「普遍言語」「生得的な言語獲得能力」の対極にある考え方のように見える。言語は集団の中で使われることで進化していくのではないか。

 ヒトが言語を獲得した源泉となった能力として私は次の2つに注目している。「自分の意図を明示し、推論するコミュニケーション能力」(「なぜヒトだけが言葉を話せるのか」トム・スコット=フィリップス)及び、「相手の目的や意図を推し量り、根底にある規則や規範を見抜き、複雑な階層構造を学ぶ社会的学習能力」(「文化がヒトを進化させた」ジョセフ・ヘンドリック)である。いずれも「言語ゲーム」と「規則に従う」に通じている。

 ここまで私自身の勝手な解釈と妄想でウィトゲンシュタインとチョムスキーを結び付けてきたが、世の中ではすでに研究がされているのではないか。Googleで検索したところやはりそうだった。多くの論考がされていてネットでも発表されている。詳しく調べてはいないが、いずれも言語に対する理論の対立という立場ではなく対照的な立場として両者を挙げているようだ。いずれきちんと読んでみたい。

 哲学や言語の専門家でもない私がここまでたどり着けたことが嬉しい。もう秋だ。  

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