トップページ > コラム

見え方は人それぞれ


2022.07.24


イメージ写真

 猛暑の日に長時間電車に乗っていて冷房が効きすぎて凍えそうになった。そこで、長時間の移動のときには薄手のロングブラウスを羽織ることにした。地下鉄でふとそのロングブラウスを見たとき違和感があった。これは確か赤みのあるレンガ色をしていたはずだ。そのために真夏に着るのを躊躇していたのだ。それなのに、なぜか濃いベージュに変わっている。すぐに、地下鉄の蛍光灯のせいだろうと自分を納得させた。やがて乗り換えのためにホームに降り立って太陽の光を浴びた。やや赤みは出たもののやはりベージュだった。結局、どの電車に乗ってもベージュのままだった。

 そもそもロングブラウス自体が色を発生させているわけではなく外部の光を反射させているだけである。その光が私の目から入り、脳で色を判断しているのだ。その日の私はベージュと判断したのだ。次の日、夕刻の薄暗い部屋に掛かったブラウスは、赤みを帯びたレンガ色に戻っていた。私自身の見え方を左右していたのは周囲の明るさの違いだったようだ。そこで思い出したのは、ボーダー柄のドレスが「白と金」か「青と黒」かの有名な議論である。これも不思議な現象だった。ただこの場合、同じ画像を見ても人によって判断が違うというのは、周囲の明るさが関係しているということだけでは納得できない。

 人それぞれ色の見え方が違うことを、「『色のふしぎ』と不思議な社会」(川端裕人著、筑摩書房)を読んで知った。私が公園を散歩していて見る木々の豊かな緑色は、他の人にはその色合いが少しずつ違って見えているのである。同じ景色を見て感動していても、隣の人にどう見えているのかは知ることが出来ない。でもどう見えていてもそれはその人の個性によるもので、正常とか異常とか決めつけられるものではない。本書で主張しているのはこの点だった。これまで、我々は「色覚検査」を受け色覚異常と正常に区別されてきた。しかし、現代の科学では、色覚異常は異常ではなく多様性の一部であると認められつつあるようだ。

 多様性と言う言葉を聞くことが多いが、それを認めて受け入れることは難しい。自分以外の人が何を考えているか、世の中をどう見ているかは、色覚がそうであるように分からないからである。統計的にみて大多数の人と違う考え方や感覚は「異常」と見なされてしまう可能性が高い。さらに面倒なのは、成長する過程で「世の中で正常とされる考え方」が刷り込まれてしまうことである。これはかなり努力しなければ拭うことができない。

 さて、地下鉄に乗っていた時、次の駅での乗換案内が英語で放送された。「ポテトシンライン」と聞こえる。一体日本語では何というのか。「じゃがいも新線」?そんな路線は聞いたことがない。気になって次の駅で案内板を見てみた。「副都心線」と書いてあった。

 耳から入る言葉も本当は発信者の意図通りには伝わっていない可能性が高い。例えば高齢者に話しかけるときがそうである。分からなくともそのまま聞き流されることも多いだろう。オンラインの会議の場合も、対面であればできるはずの相手の表情や仕草を読みとったり、不明なところは聞き直したりすることが難しい。人の感覚は多様であることを前提に、新しい時代のコミュニケーション方法について見直す必要がありそうである。

コラム一覧へ