トップページ > コラム

現代人が過去を表現する難しさ


2022.06.19


イメージ写真

 明治、大正、昭和時代に書かれた小説や映画では、現在では考えられない差別的な表現がかなりの頻度で出てくる。時には目をそむけたくなるものもある。これらは、当時の世相を表したものとして修正はされることはない。つまり、過去に作られた小説や映画は、その表現も含めて芸術作品と見なされているのだ。それを読んだり、観たりする現代人も、当時はこのような表現や振る舞いをしていたのだという事実をそのまま受け止める。

 最近、朝ドラなど50年前、60年前を描いたドラマに違和感を覚える。その時代の服装や建物、食べ物、雰囲気などはとてもよく表現されている。にもかかわらず、何かが違うのである。そこで気づいたのだが、登場人物の考え方や言動が現代なのである。それはしかたがないことかもしれない。昭和の時代に当たり前に考えられていたこと、言われていたこと、ふるまいをそのまま表現したら、それこそ、セクハラ、パワハラ、差別、その他もろもろで大騒ぎとなり、登場人物は全て悪人になってしまう。現代人が過去を表現するときは、現代人の常識の範囲でなければならないのだ。

 私自身の経験だが、50年、60年前には、自分の両親や祖父母はかなり差別的な発言をしていたように思う。それを私は不愉快に感じていた。それは私自身に直接関係する男女差別的な発言だけではない。自分の友達や有名人の出自に関する差別的な発言は胸が痛かった。ただ、私の両親や祖父母が特殊な考えを持っていたわけではなく、世間の風潮がそうであったのも知っている。現在、私が仕事にかかわる発言を除いては人生観などの一般的な発言を控えているのは、ひょっとしたら知らぬ間に当時の風潮に影響されていて、ふとした拍子にそれが出てしまうことを恐れてである。

 私は20歳代の頃よく一人旅をした。アンノン族と言われる若い女性たちの旅行ブームの走りの頃である。旅先で同年配の女性たちと友達になることも多かった。彼女たちには共通したある思いがあった。それは結婚したらもう旅行はできないということである。当時は望む望まないに関わらず女性は結婚しなければならないとされていた。結婚したら婚家のしきたりに従わねばならず、自由に行動はできないのが当然とされていた。だからこそ短期間の自分に自由になるお金がある期間に旅をして、それを思い出にその後の人生を耐えようと思っていたのである。現代の女性たちには想像もつかない話だろう。そんな思いなど現代のドラマの中には出てこない。現代のルールにのっとった言動は現代人の共感を得るだろうが、私から見ればそれはパラレルワールドに存在する物語にしか思えない。

 現在97歳の母は、私に会うたびに私の体のことを気遣う。母に言わせると、私は体が弱くいつも熱を出していたらしいのだ。当時の子供たちは多かれ少なかれ病気がちだった。ところが、現在の私自身はもう数十年も熱など出したことはなく、インフルエンザに罹ったこともない。現在も薬は一切飲んでいない。少々腰痛はあるが、健康そのものである(と思っている)。もしも私が自伝ドラマを作ったら、元気で希望に満ちた子供時代になっているだろう。それを母が観たら、どこの世界の話かと思うはずだ。

コラム一覧へ