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「認められたい」の次に来るもの


2017.04.16


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 多くの人たちは、自分のしたことを他人に認めて欲しい、褒めて欲しいと思っているだろう。私もそうである。しかし、なかなか思い通りにはいかない。評価するのは自分ではなく相手(他人)だからである。自分は他人に認められたいのに認められていない、と思う時、どういう振る舞いをするだろうか。これまで色々な人たちと付き合ってきた結果、大きく三つに分かれるのではないかと思うようになった。

一つは、「自分が認められないのはおかしい。世の中(評価者)が間違っている。」と声を上げる人達である。時として、認められている他人を貶める発言をする人すらいる。

二つ目は、「自分は認められるに値することをしているが、認められたいと声を出して言うのは品がない。わかる人にはわかるのだからそれでいいではないか。」という謙虚な人達である。リタイアした人達や現役の年齢の高い人達の多くはこれに当たるのではないか。何も言わないので、世間の人からは、「あの人は世の中に認められたいと思っていないのかもしれない」と取られている可能性がある。

三つ目が、「まだ認められるだけの成果が上げられていない。まずは成果を上げてからだ。」と考えている人達である。現役の、若手に属する人達に多いと思われる。

 自分が認められないのはおかしい、と声を上げる人たちは、あまり幸せには見えない。攻撃的であり、後ろ向きである。認めさせることが人生の目標になっている人もいる。自分を上に見せたいために、認められている人を否定する。そこからは何も生まれない。孤独になるだけである。

 実は私自身は(もう70歳に手が届きそうではあるが)一見すると2番目のように見えるが、実は3番目に当たると思っている。そして、それこそが働き続けられる原動力なのだ。これまで40数年働いてきて、価値ある成果を出していないのは事実である。でも、「自分の実力ではこれが限度。がんばったのだから許してよ。」とは言いたくない。「本来なら成果が上げられるはずだが、努力が不足していて評価に値するレベルに達していないのだ。」と思っている。だから、人には言えない『目標』を定めて、それに向かってインプットを増やし、アウトプット、すなわち「価値」を出そうともがいている。冗談を言っているように見えるかもしれないが本当である。

 私は現在68歳である。父は戦争で命拾いして戦後を生き抜き、満身創痍ではあったが97歳まで生きた。であるなら、健康な私は100歳まで生きてもおかしくはない。あと32年もある。もしも私が大学入学したての18歳だったとすると、32年後は50歳である。下手をすると大企業の社長になっているかもしれないし、ノーベル賞を取っているかもしれない。それだけ長い時間である。これから新しいことを学び、仕事にし、成果を上げるのに十分な時間ではないか。そうすれば、期待通り世の中に認められるかもしれない。

 そんなわけで、大学に入学したつもりになって学びなおすことを考えた。まずは語学である。大型書店の語学テキストの売り場に行ってドイツ語のテキストを手に取った。50年前に第2外国語で取ったはずである。全くチンプンカンプンであった。隣のフランス語のテキストをめくってみた。大学入学から2年後ぐらいにお茶の水のフランス語学校に1年ほど通ったことがある。こちらはほんの少し分った。迷わずフランス語の入門書を購入した。さあ、18歳の私が50歳で認められるようになるための努力を始めるのだ。

 「認められたい」と思うことは人間として当たり前のことである。その次に来るもので幸せを掴むか孤独な人生になるか、が決まるかもしれない。人生は想像以上に長い。



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