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昭和と令和の距離は意外に近い


2022.02.27


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 永井荷風の日記(断腸亭日乗)のエッセンスを集めた「摘録 断腸亭日乗」(上下巻)を読んだ。上巻は大正6年(1917)から昭和11年(1936)まで、下巻は昭和12年(1937)から昭和34年(1959)まで、全体で荷風38歳から79歳の日記である。入手の時期の関係で、まず下巻から読み始めた。下巻部分で特に印象に残ったのは第二次世界大戦中の記録である。60歳代後半から何度も空襲に遭い家を焼かれて逃げ惑いながら命をつないでいく様は、自分のことのように恐怖を感じた。戦後は一人暮らしを貫きながら80歳目前まで驚くほどのパワフルさで活動していて、自分もかくあるべしと心強く思ったものである。

 1か月後に上巻を読んだ。最初から漢詩が出てくるし、言葉の意味もよく分からない。すぐに投げ出したくなった。しかし、私の両親の年齢などを当て嵌めて当時の世相を知ろうと我慢しながら読み進んでいくにつれて、だんだん面白さが増してきた。それにしてもまだ働き盛りの年代なのに、死期が迫った老人のような記述が目立つのはなぜだろうか。特に気になるのは、昭和に入ってからの「人々の生活、文化の変化」に対する批判である。明治を懐かしみ、昭和になって人間がだめになったと言わんばかりである。

 私は、処々に見られる差別的発言に対してはあえて目をつぶり、本人の問題とはしないようにしている。これは当時の世相を表したものであって本人の本心から出ているかどうかは不明だからである。しかし、昭和に入ってからの東京の人々の行動や文化の乱れが、地方から来た「田舎者」がもたらしたものであるという主張には苦笑せざるをえなかった。

 さて、昭和初期、今から90年前の東京で何が悪くなったと言っているのだろうか。レストランで小さな子供たちが騒ぐ、銀座の街中で酔った学生たちが騒ぐ、海外の演劇やショーを日本向けに翻案して上演する、などである。令和の現代も同じではないか。荷風は明治時代と比較して悪いと言っているようである。しかし、昭和初期のほんの20年前は明治だったのだ。そんな短期間でそれほど世相は変わったのだろうか。

 面白い記述があった。言葉の乱れについてである。例えば、秋葉ヶ原にできた鉄道駅の名前がアキハバラになったのは鉄道省の役人が田舎者だからと言っている(大正15年)。東京市議会議員の収賄の記事を新聞記者が「芋蔓式に拘留」と書いたことを「田舎の方言を用いて都会の事件を叙す」とし、「文が拙劣で読むに堪えず」と切り捨てている(昭和3年)。天気予報で「愚図ついた天気」というのは下品で耳障りが悪いと批判している(昭和7年)。芋蔓式も愚図ついた天気も90年後の現代でも普通に使われている言葉である。これらは言葉の乱れと言うより分かり易い表現と言うべきだ。昭和9年には、批判はしていないが「当世青年男女の用語」として次のようなものを挙げている。「どうかと思うね」「参ったよ」「雰囲気に酔った」「憂鬱だよ」「過去を清算する」等々、いずれも令和の時代でも普通に使われている。昭和と令和の文化的な距離は明治と昭和の距離より近いのではないか。

 結論じみたことを言えば、明治から昭和の距離が大きく見え、昭和から令和の距離が(時間的にはかなり隔たっているにもかかわらず)小さく見えるのは、2つの理由が考えられる。一つは日本人の寿命が急激に伸びたことである。老人の言葉を孫やひ孫が聞く機会が多ければ言葉は長く伝わる。もうひとつはメディアの発達である。ラジオが普及し、戦後はテレビ、平成からはインターネット時代になり、言葉はあっという間に全国に広まり定着する。荷風は近所のラジオの音を非常にうるさがっていた。ひょっとしたら、死ぬまで明治を懐かしんでいたのかもしれない。私の周りには昭和が沢山あるので別に懐かしさは感じない。



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