トップページ > コラム

希望が信念に変わることの危険性


2017.04.02


イメージ写真

 組織の経営改革、業務改革でも、個人の受験や転職でも、何かに挑戦するときにはまず理想の姿(○○になりたい)を想定する。その後、現状とのギャップを明らかにし、そのギャップを埋めるための努力を重ねることになる。現状と理想の姿のギャップが大きければ大きいほど理想の実現には困難を伴うが、実現したときの喜びはそれに比例して大きくなる。情報システムの開発の際も、まずシステムのあるべき姿を描き、現状を分析して把握し、両者のギャップを埋めるようにシステムを設計する、というのが定番である。それにより、何をすべきかが明確になり、最終的な成果物が目的と合致しているかを正しく評価することもできるからである。

 ところが、理想の姿と一見よく似ているのだが、全く逆の方向に走る恐れのあるものがある。それは、希望の姿(○○だといいな)である。これは、おかしな変遷をたどることがある。つまり、「○○だといいな」あるいは「○○だと都合がいいな」が「○○のはずだ」になり、さらに「○○に違いない」に変わるのである。希望がいつの間にか信念にすり変わるのである。これは危険な兆候である。希望が信念に変わると、それを証明するために、○○であることを示しているデータを集めることになる。もしも都合の悪いデータが見つかったら、「そんなはずはない、間違いに決まっている」としか考えられなくなる。そうなれば、都合の悪いデータは捨てるか改ざんするしかなくなる。理由はいくらでも考え付く。「人間は間違いをおかすものだからデータの記録を間違えたんだろう」「測定する機械が壊れていたに違いない」という具合に。世の中に多く存在する不正、虚偽、冤罪、等は、「○○だと『都合が』いいな」がエスカレートした結果と言えるのではないか。

 ここで言っている「理想の姿」と「希望の姿」の違いはどこにあるのだろうか。それは明らかである。現状を把握しているかいないかである。「理想の姿」を描くときは、現状をしっかりと把握して、それがまだ実現していないことを認識している。それ故に、現状を理想に近づけたいという思いが生まれる。「希望の姿」は、現状を(意図してか、しないか)認識せず、ぼんやりとした夢として描く。現状を知らないので、現状を都合の良いようにゆがめて捉え、さらには都合の良い状態が真実の姿だと思い込んでしまう。それが、希望が信念に変わった瞬間である。

 間違った信念が不正や冤罪などを生み出さないようにするには、現状を正しく認識させるしかない。しかし、 信念に凝り固まった人に現状を認識することを勧めても受け入れられないだろう。これは冷静な第三者に、事実を、論理的に示してもらうしかない。世論の力を借りることも必要かもしれない。

 希望の段階であれば現状の認識を勧めることは可能かもしれない。しかし、希望を持っている人に「現実を知れ」と言うことは、下手をすると「希望を捨てろ」と言うことにつながり、残酷な気もする。望ましいのは、希望を理想に変え、現状を把握した上で理想に向けて努力するよう仕向けることだろう。例えば、思いを寄せる人のストーカーになるのではなく、その人にふさわしい人格を身に着けるよう自分を磨くようにする、ということである。

 現実をしっかり把握した上で描く理想は、できるだけはっきりした形を持っていた方がよい。さらに、理想を実現するためには、理想と現実のギャップを埋める方法が一つではないと言うことを考えるべきである。場合によっては回り道をしなければならない。それによってギャップがさらに広がることだってありうる。それでも現状をしっかり把握して理想を見つめて行けば、時間はかかっても最終的に理想に到達できるはずである。

 現状を無視した根拠のない信念には十分注意しなければならない。



コラム一覧へ