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企業のパーパスと私のパーパス


2021.12.12


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 国内外の名だたる企業が自分たちの「パーパス」を明確に設定し、それに基づいてビジネスを行っているというニュースがあった。企業のパーパスとは、「社会における企業の存在意義」だそうである。それを決めるにあたっては、社員全員で話し合うとか創業時の理念(初心)に立ち返るとか、様々な取り組みがなされているようである。このニュースだけ見ると何となく納得した気分になる。でもパーパスの例を見る限り、これまでも言われていた企業のミッションやビジョンとあまり変わりないようにも思える。多分、「存在意義」を強調しているところが、これまで以上の強い意志と危機感を示しているのだろう。つまりは、存在意義のないものは市場から去るべしということである。

 さて、個人のレベルで考えるとどうだろう。私自身の社会における存在意義は何だろうか。それが無くなったら世の中から去るべきなのだろうか。考えたら急に冷や汗が出てきた。確かに今は大学で学生に教えるという仕事を持っている。次の時代を担う人材を育てるということで、一応存在意義があるのではないか。しかし、この仕事が無くなったらどうだろう。いや、人間の存在意義は仕事だけではないはずである。

 例えば私は、電車内で席を譲られたら、たとえ次の駅で降りる場合でも決して断らないことを信念にしている。理由は簡単である。座席に座れれば楽だし、「ありがとう」と相手に言うことで相手はいい気持ちになる。そうすれば、次に別の誰かに席を譲るようになるだろう。つまり、幸せな気分はどんどん広がる。私自身も妊娠中の若い人が近くに立てば必ず席を譲る。赤ちゃんが無事に生まれてくれば誰だって嬉しい。本当に小さなことだが、年取った私にだって仕事以外に存在意義はあるのだ。

 最近、山田風太郎著の「人間臨終図鑑」(徳間文庫 全4巻)を読んでいる。2001年に三巻本として発行されたものを2011年に4分割して文庫本にしたものである。国内外の有名人が亡くなった時の状況を享年順に並べて記している。古書をAmazonで購入した。まだ、第1巻(十代から四十代で亡くなった人まで)と第3巻(65歳から76歳で亡くなった人まで)しか読んでいない。若くして亡くなった人と自分と同年代で亡くなった人は当然ながら死因が大きく違う。若い人は結核や戦死が多い。一方、自分と同年代は大多数が脳溢血か癌である。そして、どちらにも共通しているのは、どんな理由であれ死は悲惨であるということである。大半の人がもがき苦しんで亡くなっている。第4巻を読んでいないのでわからないが、いわゆる「天寿を全うした人」は果たして心やすらかに死を迎え入れているだろうか。私にはそうは思えない。

 現在の私にとっては「存在意義」などどうでもいいのだ。ただ私は死ぬことが怖い。死にたくない。だから必死で死から逃れようとしている。どうせいずれは死ぬのだけれどそれまでできるだけ時間稼ぎをしたいという思いもある。その間に医学が進歩して、もがき苦しむ悲惨な死から逃れられるようになるかもしれない。そして、肉体的に滅びる時が来た時に心やすらかに死を迎え入れたい。それが私の生きる目的(パーパス)である。



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