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未来への期待が高まるのはなぜか


2021.11.14


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 中学生の頃から家を出ることばかり考えていた。まず東京へ、そして海外へ。現代の子供たちは親と仲が良い、とよく言われているが、当時の私はそんなことはなかった。親に守られている感覚よりも親から様々な規制を受けている感覚が強かった。家を出ればきっと自由に自分の考えで行動できるはず、祖母や母とは違う人生が送れるはず、と信じた。高校を卒業してようやく家を出ることができた。当時は、強い意志があれば何だってできると信じていた。自分には無限の可能性があるとすら思っていたのだ。

 もしも73年生きてきた現在の感覚のまま中高生時代に戻ったら、全く違った行動をとっていただろう。数学が得意でもないのに理学部の数学科に進むなどということは決してしなかったはずだ。家庭を持ち、子供を育てながら定年まで仕事を続けることを目標にしなかったかもしれない。自分の実力や社会環境について無知であることは、実は大きな行動力の源になっていたのだ。しかし、失敗の経験を重ね、現実を知ってしまうことが大胆な行動を抑制し、安全な方向へと導いてしまう。これでは創造的な活動などできるはずはない。

 このコラムでも書いたことがあるが、私は極度の心配性である。一歩玄関を出たらマスクは決して外さない。大学の講義はリスクばかり考えてますますストレスは増える。ウォーキングのときは歩道を歩いていても車が飛び込んでくるのでは、と周囲を見渡すことを忘れず、信号機が点滅し始めると絶対に渡らない。いずれも、自分の失敗した経験やメディアの情報によるリスク回避行動によるものである。一方で、まだ経験したことのない未来に対する期待はかなり大きい。無知であることがその大きな要因であることは確かである。

 ごく近しい人たちを相次いで亡くした数年前から、長生きをしたいと強く望むようになった。私の最期は祖父母や両親、夫とは違うものにならなければならない、いや、なっているはずだと信じているのだ。その源泉は技術の進歩である。メタバースという言葉がトレンドになっている。仮想空間で様々な人達とコミュニケーションがとれ、仕事ができ、様々な場所に行くことができるなんてすばらしいではないか。自動運転のタクシーを使えば近いところであれば気軽に移動ができてアクティブに行動できる。足腰が弱ってきても、ロボットスーツを着用することで支援者が要らないし車いすも必要ない。塩分、糖分、脂肪の制限が続くにしても、仮想的に好きなものを食べている感覚が得られるシステムができれば楽しく食事がとれる。身体の状態がリアルタイムにチェックされていれば、大事に至る前に必要に応じて適切な治療が受けられ、ますます長生きできる。

 こうなってくると、個人の問題として最後に残るのが、脳をいつまで健康な状態に保てるかになる。こちらは、私が生きている間に脳の働きがすべて解明されるようには思えないので、個人の努力に負わなければならないだろう。脳を常に活性化させていることが必要である。それには常に問題解決をしていくことが有効だと思っている。つまりは、ストレスが継続的にかからないといけないということである。何とか仕事が続くようにしよう。 無知は大胆さを生み、大胆さが創造性を育む。特に若者は無限の可能性を信じてほしい。



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