トップページ > コラム

猫の幸せと犬の幸せ


2020.08.09


イメージ写真

 郵便受けから郵便物とちらしを引き出すと、その間にくしゃくしゃになった紙が入っていた。取り出して広げてみると、猫の写真と「○月○日から行方不明になっています。見かけた方はご連絡ください」という手書きのメッセージだった。我が家の郵便受けは古いために雨に弱い。3週間ほど前には大雨のせいで重要な書類がびしょびしょになり、慌てて乾かした覚えがある。そのときに、沢山の濡れたちらしも入っていた。このちらしは郵便受けの天井に張り付いていて、梅雨が明けて乾いて剥がれ落ちたに違いない。

 我が家で猫は飼っていないが庭先に出没する猫はいる。「不思議の国のアリス」に出てくるチェシャ猫のような、どんなご馳走食べてこうなったのかと思わせる大きな猫である。雨が降っていれば5年前に亡くなった愛犬の小屋で雨宿りをし、晴れていれば濡れ縁で日向ぼっこをしている。私が庭に出ると。大きな体にもかかわらず素早い身のこなしで目の前から消える。飼い猫なのか野良猫なのか不明である。なお、行方不明の猫とは色からして違う。

 40年ほど前までは野良犬に遭遇することがよくあった。駅まで歩いていく途中で後を付いてこられて怖くてたまらなかったことも覚えている。現在はそのようなことは無い。犬は公にしっかり管理されている。犬も買主も管理されることで守られている。一方で多くの猫は管理されていない自由の身である。どちらが幸せかを人間が判断することはできない。

 我が家では、5年前まで2匹の柴犬を連続して飼っていた。25年ほど前、最初に飼っていた犬が散歩の途中で逃げ出したことがある。散歩コースを犬の名を呼びながら探しまわっていると茂みの中からひょっこりと現れた。私と目が合ったそのときの愛犬のほっとしたような表情が忘れられない。よっぽど怖い目にあったのだな、と直感した。やはり犬は管理された状態でいるのが幸せなのだ。

 一方で、現在我が家の庭を別荘のように使っているチェシャ猫は、自由で、太っていて、しかも元気で幸せそうである。私の顔を見て逃げ出すものの、また暫くすると濡れ縁で居眠りしている。逃げ足に自信があるのだろう。管理されずに生きられる猫は、人間にとっても理想かもしれない。安全でも犬になりたいと思う人間が果たしているだろうか。

 新型コロナウイルスと共存していく日本の社会においては、日々の行動に対しては自粛が求められ、経済活動に対しては要請がなされている。一番大切なのは「人の命」であることは誰も否定できない。しかし、人それぞれに事情がある。強制的に行動を制限されることは、たとえ安全が保障されたとしても犬になるのと同じではないか。命を守りつつ自ら最善な行動をとることができることこそ人間である証ではないか。

 新型コロナウイルス感染を防ぐために「してはいけないこと」は、これだけ情報がすぐに行き渡る時代であれば皆分かっているはずである。人間には想像力がある。お盆に帰省した時に周りに与える影響だって想像はつくはずである。どうしても会いたい人がいるのなら安全な対面の方法はある。「密を避けろ」ともう半年も言われているではないか。 行方不明の猫は無時に戻れただろうか。それともどこかで自由を満喫しているのかな。



コラム一覧へ