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大学で学ぶことの意味を改めて考える


2020.04.19


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 新型コロナウイルスの影響で、私が非常勤講師をしている大学は、新学期の開始を5月7日としている。しかし、連日の感染拡大、医療崩壊の危機の報道などを見る限り、多分、5月の連休明けでも現在の状況は変わらないのではないか、と危惧していた。大学のぎっちり詰まったカリキュラム構成や時間数の管理を考えれば開始をさらに遅らせるのは無理ではないか。そのような時飛び込んできたのが「遠隔授業」の依頼だった。

 大学から推奨されているのはzoomという電子会議システムを利用して自宅から遠隔で講義をするというものである。実際に試してみたが、自宅のネット環境に起因するトラブルや学生のネット環境なども考えると、これだけに頼るのは非常にリスクが大きい。音声付きの画像資料をクラウドに載せて定期的に配信し、内容の多いレポートを毎回提出させるオンデマンド型の講義を中心にさせてもらうしかない、と現段階では考えている。

 大学だけではない。小学校、中学校、高等学校も授業ができなくて困っている。理工学系の大学の講師ですら自宅から講義をするということにびびっているのだから、急に遠隔授業を進めることはかなり困難であることは目に見えている。改めて長期的な視野で教育の仕組みを見直すべき時であると強く感じた。

 この現在の状況で思い出すのが、50年前の自分自身の大学時代である。私は当時には珍しく、女性でありながら浪人して4年生大学に進ませてもらった。両親への感謝、申し訳なさなどもあり、大学での勉学に対して大きな期待と意欲を持って入学した。ところが、たった1か月で、大学紛争により大学はロックアウトされ、全く授業が受けられなくなった。結局、4年間のうち大学に通えたのは2年半である。その間に4年分の内容が詰め込まれた。多くの学友が大学院に進むか留年したが、既に一年遅れていた私は、卒業して社会に出る道を選んだ。正直な気持ちは「もっと勉強したかった」である。

 それから50年経った今言えるのは、当時の私の経験は良い方向に転んだのではないかということである。理由は2つある。一つ目は、指示されたことをこなすのではなく自分から学ぶものを求めていく姿勢が身に着いたことである。大学に行けなかった1年半の間、自分自身で勉強は続けていた。シラバスもなく、導いてくれる教師もなく。そこで身に着いたのが、自分の道は自分で迷いながら探すことだった。二つ目は、社会に出て勤めてからも勉強を続けたことである。4年制大学を出たにもかかわらず2年半しか勉強していない、という負い目もあって上司、先輩に食らいついていった。お陰で、研究職でもないのに57歳で工学博士の学位を取ることができた。

 自宅に引きこもる日々、ウォーキングの他に欠かせないのが読書である。生命の起源、脳の仕組み、遺伝子の働き、その他もろもろの難しめの本に加えて、大学4年のときのゼミで輪読した書籍を手元に置いている。’The Topology of Fibre Bundles’ という英語の専門書。鉛筆での書き込みを見ながら、50年前の自分に思いをはせる。学ぶのは学校に行っている間だけではない。一生涯続くのである。時間を大切に使おうではないか。



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