2018年、2019年で3回東北を旅した。そのうちの2回は東日本大震災の被災地を巡った。2018年は女川、塩釜から松島、2019年は釜石と大船渡である。それらの土地で震災の貴重な体験を語ってもらい、我々が忘れてはならない災害に対する備えについて教えられた。東日本大震災から9年が経とうとしている今でも、強烈な体験談を聞くと胸が締め付けられ、震えが襲ってくる。
塩釜から松島へ向かう遊覧船のガイドさん、観光バスのガイドさん、津波伝承館の館長、被災してゼロから復活を遂げた酒蔵の総務の方、いずれも、自分自身、親戚、友人の体験を交え、震災の悲惨さを語ってくれた。本来であれば、つらく語りたくないことばかりであり、語ることでつらさが増すこともあるだろう。でも、皆さんは、まだ語り足りない様子で、我々に別れを告げた。
東北の方々は無口で、とくに自分自身のことなど語らないと思っていた私は、語ってくれた人たちの話し方に圧倒された。東北の人たちは実は能弁なのではないかと思ったりもした。しかし、そうではないと思いなおした。語り部の方々は、語ることを使命と考え、つらい体験もあえて開示してくれているのだ。そうでないと、経験したことのない我々は、時が経てば津波の恐怖を忘れてしまう。体験というものが強烈であれば心や体にいつまでも影響が残る。それを私のような忘れがちな人たちに伝えることが大切なミッションだと、語り部の方々は考えているのだろう。
60年以上前、私の家族は東京の海抜ゼロメートル地帯にある町工場の敷地内に住んでいた。1階は家族用の社宅、2階は独身寮になっていた。台風が近づくと床の荷物をできるだけ上の方に上げ、2階に避難した。すぐそばに川があり、よく氾濫していた。独身寮のお兄さんが土手に様子を見に行き、「すれすれまで水が来ている」と叫んでいた。台風が去った後は、水の中をざぶざぶと歩いて学校に行った。汲み取り式トイレの汲み取り口の蓋がよく流れてきた。(何と不潔な状態で暮らしていたことか)だから私は、台風で雨戸に打ち付ける雨の音、風でガタガタ揺れる物音で眠れなくなる。もう60年以上経っているのに。
現在、工場のあった場所は公園になり、昔の土手は高いコンクリートで固められた遊歩道になっている。それでも、今年(2019年)の台風19号で多くの川が氾濫したことを思えば、大丈夫という言葉は気軽に発せられない。水は生き物に無くてはならないものだが、とても危険なものでもあるのだ。
東日本大震災から9年近く経ち、私が訪ねた町はどんどん復興している。それを見れば嬉しく思える。しかし、行くべきなのにまだ行けていない場所がある。陸前高田である。唯一、震災前に知人を訪ねて泊りがけで出かけ、松原を散策し、町の人たちと色々な話をした場所である。震災前の様子を今でも覚えているだけに、全く違ってしまっているのを見るのが怖い。でも、必ず行こうと思う。多分、町全体が語り部として津波の恐ろしさを語ってくれることだろう。災害の備えを忘れてしまいがちな私に対して。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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震災の語り部たち
2019.12.22