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信じたことの検証に潜むフィルタリングの罠


2019.12.01


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 またも家の中から面白い古本を見つけた。「トリノ聖骸布の謎」(1995年)である。キリストの遺体を包んだと言われる布にキリストの全身像が写っている聖骸布の話は、最近もテレビの特集番組で観た。現在もどうやって写した(描いた)のか不明だとのことだった。さて25年前には何が語られていたのか、ワクワクしながら読んでみた。

 正直な所、西洋史にもキリスト教にも疎い私には、陰謀説だの秘密結社だのの話は殆どついていけない。もっと科学的な根拠を示すような話はないのか、ともどかしく思いつつページをめくっていくうちに、ようやく著者たちが示したい仮説が分かってきた。聖骸布は、レオナルド・ダ・ビンチが布に撮影した写真だというのである。確かに、どんな画家でも描くことは難しく染料も見いだせないのであれば、写真であると考えるのは自然な気がする。それを誰がいつできるか、と考えたときに、レオナルド・ダ・ビンチに思い至るのもある意味当然だろう。天才であるし、謎に包まれているし。あとはそれを仮説として検証するだけである。万人が納得する形で。

 まずわかりやすいところでは、聖骸布のキリストの顔がダビンチにそっくりであることが示される。そう言われれば確かにそうだ。そして、ダビンチがカメラオブスキュラ技術を持っていることも説得性がある。その他もろもろ示されるダビンチに関する情報と、実際に人間の頭部の模型を撮影する実験結果は、読者を信じさせるのに有力な証拠になっている。

 ここで、ふと気づいた。1990年代後半に大ベストセラーになった、超古代史に関する本とどこか共通するものがある。私自身、その超古代ミステリーのシリーズを面白がって何冊も読んだ覚えがあるが、途中から何となく信ぴょう性に欠ける、著者の思い込みによる物語、と捉えるようになった。ひょっとするとこの聖骸布の本もかなり似た傾向を持っているのではないだろうか。それは、仮説を検証するところで、それに都合のよい情報だけを取り上げて読者を説得しようとする傾向である。

 自分が信じていることを相手に伝えようとするとき、裏付けとなりそうな事実や情報のみを集めて開示し、その反証になる事実や情報はあえて言わない。相手から反証になることを示されても、それが事実でない理由を何とか作り上げようとする。思い込みによるフィルタリングである。多分これは悪意からではなく、こうあってほしいという強い意識からくる心の動きではないだろうか。

 思い込みによるフィルタリングは技術者や科学者であってもやりがちである。例えば、新製品の優秀さを伝えるのに他社製品との比較の表を作ることが多い。そこで示される比較項目には自社製品の優れた点に関わる項目が多く含まれて、どうしても偏りが出る。結果として◎が沢山付く。学術論文においても、新しい事実を発見したことを示すデータはそれを明確に裏付けるものでなくてはならないのだが、都合のよいデータのみを出し、都合の悪いものは隠したくなる。それがエスカレートすると、実験結果の改ざんや隠ぺいという、やってはならないことに手を染めてしまう。

 情報を受け止める側にも同じことは潜んでいる。情報化社会では大量のデータ、情報を必要に応じて検索が可能であるが、一度自分が信じてしまったことに反する情報はフィルタリングして見ない、聞かないようになってしまうことはよくある。それが犯罪に巻き込まれたり、大損したりすることに結び付くこともありうる。

 聖骸布がレオナルド・ダ・ビンチによって作られたものであろうと、エジプトのピラミッドが何万年前に作られようと、私たちの生活には直接影響はない。でも、本当に事実を伝えなければならないところでの情報のフィルタリングには気を付けなければならない。



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