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危ない、は共鳴する


2019.11.03


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 毎朝、1時間以上のウォーキングを続けている。コースのバリエーションは増え、数年前まで愛犬と散歩していた道も加わった。早朝に出会うのは中高年が多い。自転車に乗っている人も結構いる。散歩ではなく仕事、あるいは家庭菜園にでも行くのか。私から挨拶することはしないが、挨拶されれば必ず返すことにしている。

 先日、住宅地の横の歩道を気持ちよく歩いていたら、突然「危ない」という声がかかった。振り返ると自転車に乗ったシニアのおじさんである。特に危険な状況ではなく、ぶつかりそうになったわけではない。ちょっとよけて会釈したが、一体何が危なかったのか分からない。よく考えたら思い当たることがあった。直前にちょっとした段差があって、体が少し揺れたのである。でも、転びそうになったわけではなく、自分では危険など全く感じなかった。それが他人から見たら危なっかしく見えたのだろうか。しばらく歩いているうちに、ふと別の日にあったあることを思い出した。ひょっとして二つのことは同じかもしれない。

 実は、1か月近く前にギックリ腰を発症した。2日間ほど歩くのもつらかったが、3日目以降は何とか家事や仕事はできるようになった。ただし、階段の上り下りだけはいまだに不安があり、手すりを使っている。週に2度以上、長距離の移動をしなければならず、乗換駅ではエスカレーターの使えないところも何か所かある。そこは手すりにすがってゆっくりゆっくり上り下りしている。2週間ほど前のこと、乗り換えのため階段を下りていたら、すぐ下を5歳くらいの女の子とその両親が下りていた。突然その子が母親の方を振り返って何か話しかけようとして足を滑らせた。手すりをつかんでいたのでちょっとぶら下がる形になってすぐに体勢を戻すことができた。その子も両親も笑っていたのに、私は思わず「危ない」と叫んでしまっていた。その時のその家族の不審そうな目を思い出したのである。

 私はずっと階段を下りることに不安を感じてきた。足を下した時に痛みが走ることはないだろうか、足を踏み外すことはないだろうか、と考えていた。だから、目の前で起きたことを見て自分がそうなったように反応してしまった。あれは、自分に向けられた「危ない」だったのだ。とすれば、ウォーキング中に「危ない」と叫んだ自転車のおじさんは、もしかしたら何かしらの不安を抱えていて、前を歩く婆さん(私)の体の揺れに反応してしまったのかもしれない。

 先月から続く台風と大雨の被害は、未だに広がる一方である。まだ亡くなった人が増えている。丁度腰を痛めた時期とも重なるので、ニュースを見ては痛ましさと同時に不安な気持ちが拡大する。もしも自分が歩行困難な状態で一人で避難しなければならなかったらどうしよう。高層マンションでエレベーターが使えなくなった高齢者はどうしているのだろう。築42年の我が家もテレビのアンテナが倒れ、屋根瓦が数枚外れたのだが、屋根の飛ばされた家、倒壊した家の映像を見るたびに、これが我が家だったらと胸が痛くなる。

 不安は共鳴する。階段の上り下りも走ることも楽にできていたら感じなかった不安は、災害に対する警告なのだ。対策をより万全にしよう。人間は忘れやすい動物だから。



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