2年間年賀状を出さなかった。一昨年に夫がガンで急死し、昨年は父が97歳で亡くなったからである。重ねて、17歳になろうとしていた愛犬(柴犬、♂)も夫が亡くなったと同じ部屋で後を追った。立て続けの死に出会って、命というのはろうそくの炎のようなものだと感じた。死はろうそくの炎がふっと消えるのと同じで、消えてしまえば何も残らない。
肺ガンと診断されて3週間目に自宅で息を引き取った夫も、病院で天寿を全うした父も、いずれの死も羨ましいとは思わない。どのような死に方であっても最期はみじめである。しかし、それではどのような死に方がよいのか、と聞かれても答えられない。ただ、長生きをしてよい死に方を探したいと強く感じている。
理想的な最期として最低限の条件は、次の3点である。
@ 体が動き、自分のこと、すなわち食事の支度を含む家事全般が他人の助けを借りずにできる。
A 自分の頭で考えて、意思決定できる。
B さらに、可能なら他人のために何かをして、世の中に貢献できる。
最初の@はAIつまりロボットの力を借りてよいとすれば可能かもしれない。それでも体を動かす訓練は続けるべきだろう。もう一つのAは、AIの力を借りたら自分ではなくなる気がするので、訓練して現状維持に努める必要がある。さらなるBは、理想の生き方ではあるがかなり難しそうである。
これらを実現するのに最も有効な方法は、仕事をすることである。通勤で体を動かすことで足腰や瞬発力が鍛えられる。人と接することで緊張感を持ち、仕事への責任感は頭を使って問題解決することを求める。これが生涯続けられれば、それこそ理想の最期となる。
ところが、本人がいくら意欲を持っていても、高齢者が仕事を続けることは難しい。父は、90歳になるまで現役の技術者として設計図面を引いていたが、後進に道を譲るべく、しぶしぶリタイアせざるを得なかった。その後もパソコンとインターネットを操ってネットオークションで絵画を買いまくって家族をやきもきさせたが、やがて簡単な電子機器にも興味を示さなくなった。夫は60歳で会社を定年退職後、思うような職に就けず、完全にリタイアして図書館通いを13年間続けて亡くなった。
私は現在68歳。70歳まではフルタイムの大学教員の仕事がある。その間は、往復6時間のハードな長距離通勤を毎日行って体を鍛えることができる。情報系の科目を担当しているので日々新しい技術や知識を取り入れて学生に伝えるために頭はフル回転している。しかし、その先は見えない。
一つの案を考えた。高齢者にしかできないこと、それは、高齢者が何を求めているかを伝えること。ビッグデータの分析で傾向は掴めるだろうが、実際に老いを体験している人たちの実感を知ることはできないだろう。これは仕事にならないだろうか。
まだまだ、理想的な長生きのための闘いは続く。
自分の信念に従って行動する「高い志を持つ、市場価値の高い技術者」を育成します。
「市場価値の高い技術者の育成」を目指して、
コンサルティングと研修のサービスを提供します。
所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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理想的な長生きのために
2017.01.08