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やらされ感という言葉に対する違和感


2019.02.17


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 最近、「やらされ感」という言葉を知った。文字通り、仕事をやらされていると感じることらしい。何を今さら、という気がしないでもない。マンガを読みふけっている子供に「宿題やりなさい」と親が言うと、「いまやろうとしていたのに」と子供は言う。子供にとっての「やらされ感」だろう。子供が自分から勉強をしたくなるような親のふるまい方については昔から色々語られてきたはずである。大人の仕事に対しても、「私は穴を掘っているのではなく、立派な聖堂を作っているのだ」と考えることによりやる気が出る、などということが自己啓発の本などによく出ている。やらされ感の解消法だと思う。でも、未だに「やらされ感」が話題に上るのはなぜなのか。解決策が見つかっていないからなのだろうか。

 私の70年の人生のうちの学生時代(小、中、高、大学)ではやらされ感を感じたことはない。そもそも、「勉強しなさい」と言われたことがないのだ。「女は勉強しなくてよい」という親に頭を下げて「勉強させてください」と頼み込んだのだから感じるはずがない。

 70年の3分の2は社会人として働いてきたが、こちらもやらされ感を感じた覚えがない。感じたことはあるのかもしれないが、覚えていないということは、かなり短時間で消えたと思われる。むしろ、仕事が無くなる方を恐れていた。出産で退職し、2人の乳幼児を抱えていくつかの非正規の仕事を掛け持ちしていたとき、このまま仕事が無くなってしまったらどうしよう、と不安におののいていた日々は忘れられない。だから、どんな仕事でも『喜んで』引き受けると心に決めた。

 ここまで読むと、多分、年配者のご立派な自慢話、あるいは苦労話かと思われるかもしれない。そうではない。実は、前のフレーズの「短時間で消えた」が、私が言いたかった重要なことなのである。私の仕事の捉え方は『問題解決』である。与えられた仕事を『問題』と捉え、それをいかに速く、確実に解決するかを考える。解決したときが仕事の終了になる。その時点で達成感が感じられれば大成功である。

 問題を解決することに専念しているとき、やらされ感は無くなる。なぜなら、その時点で問題は自分で設定しているからである。単純な作業であれば、いかにして効率よく進めるかを考え、実現させる。複雑で困難なプロジェクトであれば、立場によって問題の設定が変わる。技術者としての立場であれば新技術をいかにして顧客に理解してもらい、導入を納得してもらうか、が課題となる。プロジェクトマネージャの立場であれば、いかにしてメンバーが心身を壊すことなくプロジェクトを完遂できるかを主たる課題とする、などである。

 子供が3歳と0歳のとき、夫が単身赴任し、私は一人で子供たちを保育所に預けて仕事をしていた。夜、保育所から帰ると下の子をベビーウォーカーに乗せ、上の子を椅子に座らせて夕食をとる。左足で下の子を押さえて食べさせ、右手で上の子の世話をした。そのあと、山のような布おむつをトイレで洗い、洗濯機にかけ、次の日に持っていくおむつをストーブで乾かした。何年も自分の食事は台所で立ってした。でもその頃の私は、自分がスーパーマンになったような気分で楽しかった。自分の問題を自分で解決していたからである。



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