「電車の中で化粧をすることがなぜ非難されなければならないのか。だれにも迷惑をかけていないのに。」
最近は多くの人がこう思っているのではないか。私自身はそうとは言い切れない気持ちを持っている。この感情は「恥ずかしさ」に近い。でも私が化粧しているわけではないから,私が恥ずかしいはずはない。どういうことなのだろうか。
よく,「そんなことするのはやめてよ。こっちまで恥ずかしくなる。」という言い方をする。逆に,「あなたが嬉しそうにしているとこちらまで嬉しくなる。」という言い方もある。これは,恥ずかしさや嬉しさを相手(他人)が仮想的に体験していることを示している。同じ行為を見て感じ方が違うのは,受け止める側の事情ということになる。つまり,電車内での化粧を恥ずかしいと思わない人たちが増え,恥ずかしいと思う人たちが減ってきている,のが現状なのだろう。
何年か前に,司法試験の問題を指導教官から漏らされて受験したことが発覚し,大きなニュースになったことがある。そのときのテレビ番組で若者へのインタビューがあった。彼は,「このような不正があると一所懸命勉強している人が損をする。」といったコメントをした。私はこれに違和感を覚えた。私がこのニュースを聞いて感じたのは「恥ずかしい」ということだった。この受験生がもし司法試験に合格してしまったら,一生自分のしてきたことを恥じなければならないはずであり,それに耐えられるだろうか,という思いである。これを損得で捉えるのも,それこそ恥ずかしい。
恥ずかしさが減る分増えている要素が効率(コストパフォーマンス)のような気がする。損得もこの仲間だろう。ただでさえ忙しいのに家で化粧をするのは時間がもったいない。電車の中の時間を有効活用できれば効率が良いではないか。通勤電車の中でパンをかじるのも同じことかもしれない。まあ,このレベルの話であれば騒ぎ立てるほどのこともなく,迷惑さえかけなければ目をつぶっていても問題ないはずではある。ただ,努力しても不合格になったらその時間がもったいない,だから・・・ということになれば,問題である。
もう何十年も昔だが,「あなたの仕事の質が落ちたね。」と言われて大変ショックを受けたことがある。丁度子育ての真最中で,ついミスを重ねることが増えていたのは事実だった。しかしどのような理由があったにせよ,技術者が,しかも,品質管理について語っていた自分が品質の悪いものを作るということは最大の「恥」と考えたのである。恥ずかしさは人を成長させ,技術を高める原動力にもなる。
恥ずかしさを忘れた人間はロボットと同じである。いや,効率面では人間を超えているロボット以下である。このままでは,本当に人間はロボット(AI)の配下になってしまうのではないか。
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所長:石田厚子 技術士(情報工学部門)博士(工学)
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恥ずかしさが失われていく
2016.11.20